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久野氏
瓜に三つ巴*
(藤原南家為憲流)
*「旗本八万騎」に掲載された
 図は横木瓜に左巴と見える。


 久野氏の系図は、現在数種が伝わっている。系図の性格上、それぞれに異同があり、系譜関係を確定することは困難である。しかし、いずれも藤原南家為憲流ということでは共通している。
 久野氏が遠江に土着した時期は、『寛政重修書家譜』には「家伝にいわく、久野六郎宗仲が後にして、遠江国久野に住せしより称号とす」とみえ、また「浅羽本久野系図」に「宗仲遠州久野居住 号久野六郎 法名雲外軒」とあり、その真偽は確定しえないとしても、少なくとも鎌倉時代中頃と思われる宗仲を祖とする言い伝えがあったことは確かであろう。
 貞治三年(1364)頃のものと推定される『一万首和歌作者』には「今川入道沙弥心者」(範国)らとともに「沙弥蓮阿久野三郎左衛門入道」「藤原宗明久野下野守」らの名がみえ、また頓阿が編集したとされる『続草庵集』にも、今川貞世らとともに「蓮阿久野三郎左衛門入道」がみえている。かれらはいずれも久野一族と思われ、守護今川範国に従っていたのであろう。また、掛川の原田庄を本拠とする原氏や、浜松の橋爪による橋爪氏はいずれも同族であり、中遠江一帯にこれらの久野一族が蟠踞していた。  宗仲の三代のちの清成は観応の擾乱に際し、足利尊氏に属し、正平六年(1351)九月、尊氏軍と直義軍が駿河国車返で戦った時に軍功をあげ、尊氏より証判を受け、今川範国が裏判の証判を加えたという。この事実関係は詳らかではないが、南北朝以後、一貫して久野氏は今川氏に従っていたことは間違いないようだ。

乱世を生きる

 その後、今川範政の死によって、遠江国は混沌とした状況となったが、久野氏は今川氏に属して行動し、文明七年(1475)横地四郎兵衛・勝田修理亮が守護斯波義敏に内通して見附に立て篭ったとき、その鎮定に向かった今川義忠に従った武士のなかに久野清憲がいた。清憲は今川義忠が遠江を平定して駿河に帰る途中、塩貝逆で討死したときともに討死したという。
 また、久野宗隆は今川氏親に従い、座王城にあって信濃の小笠原氏の攻撃を受け苦戦したが、福島助春・ 本間宗季らの援助を得て勝利を収めた。さらに小笠原氏が天方城に立て篭った際は、本間宗季らとともに攻撃をしている。さらに、久野宗憲は、可睡斎を造営したと伝えられ、禅僧円通松堂の檀越に久野氏の一族香心院明智公がいたことが知られる。
 このように、久野氏は一貫して今川氏に従っていたが、永禄三年(1560)五月、今川義元が桶狭間で信長の奇襲を受けて討死したとき、宗忠はともに討死したという。その後、今川氏真が駿河府中を遂われて掛川城に立て篭った際、久野氏は今川方・徳川方の二つに分裂し、結局惣領宗能は徳川家康に従い、久野などの所領の安堵を受けた。
 久野宗安(一名宗能)は、今川氏没落後徳川家康に属して、甲斐の武田氏攻撃に先陣をつとめるなど功をあげた。また、小牧・長久手の合戦にも功があり、家康の関東入国後、下総国佐倉において一万三千石を賜った。しかし、嫡子千菊丸(貞宗)、二男宗秀が早世するなどして、知行は千石に減らされてしまった。
 宗能の家督は孫の宗成が継ぎ、宗成は関ヶ原の合戦に出陣し、戦後の論功行賞で八千五百石の知行に復活した。元和五年(1619)、家康の十男頼宣が紀州五十五万五千石に封じられると、宗成は頼宣の付家老となり一万石を与えられ、田丸領六万石の支配を任された。以後、久野氏代々は田丸城主として紀州藩支え、明治維新に至ったのである。

参考資料:袋井市史・中世編/玉城町史 ほか】 


■参考略系図
・久野氏の系図は諸本あり、下記系図は『裾野市史・資料編』所収のものです。本文中の人名と一致しない部分もありますが、そのまま掲載しました。
 


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