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国司氏
●輪違い/七宝に反り花角*
●高階氏高氏流
*花輪違いに反り花角ともいう。
 


 国司氏は、足利尊氏の執事として知られる高氏の一族である。高氏は『尊卑分脈』によれば、高階氏流となっている。高階成佐より六代目の惟長は源平合戦に際して源氏に味方し、寿永三年(1184)二月の「一の谷の合戦」で活躍した。その軍功により、陸奥国信夫郡を与えられて地頭職となった。惟長の室は毛利氏の先祖で、鎌倉幕府の初代政所別当として幕政に重きをなした大江広元の娘であった。
 鎌倉時代、高氏は足利氏に仕えるようになり、足利氏の根本被官として代々足利家の執事を務め、その家政全般を統括していた。元弘の変(1331)から南北朝の動乱において、高一族は尊氏に仕えて各地の合戦に功があり、幕府内に勢力を築き、一族で河内・武蔵ほか十数ケ国の守護を歴任した。加えて、師直が引付頭人、師泰が侍所頭人、師冬が鎌倉府執事を務めるなど、幕府の要職に就任している。

高氏の興亡

 とくに高師直は尊氏の右腕として活躍、南朝方の北畠顕家や楠木正行らを打ち破ってその勇猛をうたわれた武将であった。しかし、吉野の行宮を焼き払ったり、天皇などの権威にいささかの敬意も払わない新人類であったようだ。師直の逸話のひとつに、都には天皇という人がいて内裏や御所があり、その前を通るのにいちいち馬を下りるのは面倒な。いっそ木か金で天皇を作って「生キタル院、国王ヲバ何方ヘモ皆流シ捨テ奉ラバヤ」と言ってはばからなかったことが伝えられている。
 師直の兄師泰も足利尊氏の執事となり活躍したが、やがて師直と足利直義の反目が嵩じて「観応の擾乱」が勃発した。敗れた師直・師泰らが討滅されると、高一族は衰退の一途をたどった。師泰の子師武は、建武三年(1336)七月、安芸国高田郡国司荘を与えられていた。高一族が粛正されたとき、師武は害を逃れて高田郡国司荘に下向し、のちに在名をとって国司氏を称した。
 ところで、南北朝の動乱において、大江一族の毛利貞親は新政権に背いたことで、惣領長井高冬(挙冬)に身柄を預けられ、吉田荘の地頭職を取りあげられた。吉田荘の地頭職を失った毛利時親は、曾孫師親(元春)を元服させ、足利尊氏の側近高師泰の指揮下に入れて勢力の挽回を図った。師親の名乗りは、元服に際して高師泰から一字を与えられたものと考えられる。
 高氏一族が没落したのち、師武が国司荘に下向したとき、隣郷の郡山城には毛利師親が在住していた。おそらく、師親は師泰の子である師武を無下には扱うことはなく、親身に遇したことだろう。かくして、国司荘に土着した国司氏は毛利氏に従属するようになり、ついには譜代家臣となり家老職を務めるようになった。

毛利氏の重臣となる

 師武の子元詮は毛利元春に、広詮は毛利広房、つぎの光宣は毛利光房・熙元・豊元の三代に仕えた。それぞれの名乗りは、毛利氏から一字を賜ったものと思われる。戦国期の当主有純(元純)は、豊元・弘元・興元の三代に仕え、毛利豊元の女を妻とし、幼い元就が猿掛城在住のとき後見役をつとめた。有純の子有相は毛利弘元・興元・幸松丸・元就の四代にわたって大奉行職を務めた。このように、国司氏の代々は毛利氏の重臣として続いたのである。
 明応八年(1499)、有相は温科国親との戦いに出陣して戦功をあげ、永正年間(1504〜20)、大内義興が足利義稙を奉じて上洛したとき随従した興元に有相も従った。同八年、京都船岡山の合戦に出陣して功をあげ、興元から高田郡吉田村のうち秋貞を宛行われた。
 永正十三年(1516)、毛利興元が死去し、あとを幼い幸松丸が継いだ。時代は戦国乱世の真っただ中であり、安芸国は西の大内、東の尼子の勢力の対立の場となっていた。毛利氏は興元の弟元就が幸松丸を後見して、安芸守護家であった武田氏と戦ってこれを破り、さらに尼子経久に従って銀山城攻めに出陣するなど、乱世を果敢に生き抜いていた。
 ところが、大永三年(1523)幸松丸が急逝したため、志道広良・福原広俊らを中心とする毛利氏宿老十五人が連署して元就に宗家の家督相続を要請した。有相もこれに連署し、井上元景とともに元就への使者となった。のち、その功績と父元純が幼いころの元就の後見をつとめていたことから、元就より粟田口国久の銘のある脇差を与えられた。天文十一年(1542)有相は死去し、家督は嫡男の元相が相続した。

合戦につぐ合戦

 元相は元就の嫡男隆元の守役をつとめ、隆元から「元」の一字を賜った。天文九年(1540)、尼子晴久が大軍を率いて郡山城を攻撃してきた。この「郡山籠城戦」において、尼子氏と毛利氏が激突した青山土取場の戦いで元相は渡辺勝らとともに奮戦、尼子方の武将三十四人の頚を取る活躍を示した。同十一年、大内義隆が富田月山城攻めを計画、この陣に毛利氏ら安芸の国人領主らも参加した。しかし、翌年、尼子方の反撃によって大内氏は敗北、撤退戦において元相は傷を負いながらも奮戦、無事帰還をはたしている。
 天文十九年(1550)、五奉行制が整うとその一員となり、永禄三年(1560)には正親町天皇の即位料を調進する隆元の使者として上洛、将軍義輝より「槍の鈴」を免許された。元相は永禄八年ごろまで奉行職をつとめ、同十年ごろに嫡男元武に奉行職を引き継いでいる。とはいえ、その後の元亀三年(1572)の毛利氏掟の制定に際して、奉行人の一人としてこれを確認したたことが知られる。
 元武は輝元の守役をつとめ、毛利氏の重臣の一人として活躍した。天正十年(1582)、織田信長の部将であった羽柴秀吉と毛利軍が備中高松で対峙していたとき、「本能寺の変」が起こった。このとき、毛利氏は秀吉と和睦し、秀吉をして後顧の憂いをなさしめた。以後、毛利氏は信長後を受けて天下人となった秀吉と協調し、天下統一を果たした豊臣秀吉のおこした「朝鮮の役」にも従軍した。この陣に、元武も参加して渡海し軍功があった。
 慶長五年(1600)の「関ヶ原の合戦」で敗れた毛利氏は、中国の覇者の座から周防・長門の二国に減封され、広島から萩へと移住した。国司氏も毛利氏に従って萩に移り、以後宗家は長州藩寄組に列し、一族も繁栄して近世を生き抜いた。
 後裔に、幕末の当主萩藩家老の国司信濃親相が出た。親相は文久三年(1863)、赤間関の攘夷戦で諸隊を督戦し、さらに元治元年(1864)の「禁門の変」でも一軍の将として出陣した。しかし、敗れて帰国後におきた第一次幕長戦争で、責任をとって益田右衛門佐・福原越後の二家老とともに自刃した。・2005年05月05日

【参考資料:戦国大名家臣団事典/毛利元就のすべて など】


■参考略系図
 


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