ヘッダイメージ



国枝氏
桔 梗
(出自諸説あり)
・姓氏苗字事典『国枝』氏の項より


 美濃国池田郡本郷に拠った国枝氏がいる。美濃国枝氏の出自については諸説があり、西美濃三人衆の一人である安藤氏の一族ともいい、また池田荘の旧家である紀姓池田氏の一族ともいい、あるいは、越前から来住した加藤氏の後裔ともいい、その真相は詳らかではない。本郷へ入る前は田村に住んでいたようだ。
 田村から本郷へ移った頃については、竜徳寺文書には文明六年(1474)国枝守長が畑を買ったことが見え、同十六年(1484)国枝正助・為助が竜徳寺へ池田荘乾の田一段を寄進していることから、文明六年から十六年の間に移住したものと推定される。やがて、守護土岐氏から『給分』をもらうまでになり、田村の土豪的名主として、土岐家の被官となり、池田荘に勢力を扶植し始めた。

美濃の戦乱

 竜徳寺系譜には、国枝為助は本郷に住み太郎ケ宮の西に城を築き、竜徳寺を中興したと記している。また、別の系譜では、文明年間に城の大改築をしたとある。国枝氏の名があらわれるのは、「舟田の乱」である。
 船田の乱とは、美濃守護土岐成頼の継嗣争いに端を発した。すなわち成頼には嫡男政房があり守護代斎藤利国が補佐をしていた。ところが末子元頼に継がせたいと望んだ成頼は、小守護代と呼ばれていた石丸利光にその補佐を密かに頼んだ。利光は斎藤利国の父で名将の誉が高かった妙椿に登用されて戦功をたて、やがて行政をその手に握り「美濃十八郡を併呑」しようとねらっており、この依頼を執権斎藤の翼下から躍り出る好機とした。かくて美濃の応仁の乱と呼ばれる「舟田合戦」が始まったのである。
 明応四年(1495)石丸利光の率いる軍勢は、守護斎藤利国のかためる軍勢と革手城近くで激突した。利国は大野郡西郡の古田氏が石丸方に味方したというので、兵を送ってこれを討たせた。その報を受けた利光は千余人の兵を救援に向わせ、石丸正信を上将とし、国枝為助を次将として軍勢を率いさせた。これを知った斎藤利国は、弟利安・利綱らに兵三千を授け石丸勢を目指して進撃させた。
 両勢は中野で会戦した。戦は斎藤方の先陣山田氏と石丸方の国枝氏との激突になったが、国枝為助は敗れ、兄弟五人とともに討死した。緒戦に敗れた石丸方は主将正信が、斎藤利安・利綱に左右から挟撃されて壊滅した。石丸利光は味方の敗亡により部下が萎縮したため、舟田城を支えるのは困難であるとして城に火を放って、元頼を擁して近江に落ちて行った。こうして舟田の乱は明応四年の戦をもって終結した。勝敗を決したのは中野の戦であり、緒戦に国枝為助が敗れ、その態勢を立て直す余地もなく石丸方は全滅してしまったことであった。
 為助の子正助は、舟木の乱で父をはじめ叔父が討死したこともあって、新守護土岐政房に登用されることもなく、漸くその家系を保ったに過ぎなかった。
 政房には嫡子政頼と次子頼芸があった。政房は家督を頼芸にゆずろうとして内訌が起こり、守護代利良は政頼を助け、重臣長井豊後守利隆は頼芸を助けた。永正十四年(1517)政房は敗れて革手城を政頼に譲り、城田館に隠退したが、内乱はやまず、翌年には土岐政頼・斎藤利良は敗れて越前へ逃れた。こうした土岐守護家の内紛の中で、国枝氏は土豪としての実力を再び積み上げてきた。

土岐氏の衰退と国枝氏の没落

 正助のあとは宗竜が継ぎ、永正十七年(1520)から元亀三年(1572)まで国枝氏の惣領であった。宗竜の時代における最大の事件は近江の浅井亮政の美濃侵入である。近江の浅井亮政は小谷城に拠り、越前の朝倉氏と結んで成長してきた。江南の六角定頼は浅井氏の伸長を恐れ、今まで敵対していた美濃の土岐・斎藤氏と和して、連合して浅井勢と争った。
 戦は大永元年(1521)秋、亮政と美濃勢が関ヶ原・玉で手合わせしたのが始めであるが、同五年の合戦は激戦であった。亮政が八千余の軍勢を率いて春、垂井から大垣城を攻撃した。さらに同年秋、越前朝倉氏の応援を受けて再び来攻し、革手城へと向かってきた。そこで、不破河内守・稲葉備中守・丸茂兵庫頭・国枝大和守ら五百余騎が栗原山へ馳せ向かい、射手二百余人を前に立てて待ち受けたところ、亮政は退いて牧田に拠った。
 西濃の諸将が状況を革手城へ注進すると、土岐頼芸は千七百余騎を率いて栗原山に到着し、牧田に押し寄せ、亮政の先陣を崩し勇戦した。このとき、頼芸が栗原山の西南に向かうと、近江勢四百余が斬りこんできた。さらに山蔭から近江勢五百余が現われ、左右に敵を受けた頼芸の勢が浮き足立ったとき、国枝大和入道宗竜・同興次、稲葉備中守・丸茂兵庫頭らが駆けつけ、それぞれに奮戦した。「丸茂が一族、国枝が郎等末松等、銘々大きに働きて討死す。稲葉備中守父子、ここを破られては誰に面を向ふべきと、多勢の中へ突て入り、敵に相当たり、縦横に斬って廻り、父子六人郎従共に討死」した。かくして、夕暮れとなり、浅井勢は美濃勢の来援が次々を増すため近江へ引き揚げていった。頼芸は戦功をたたえて丸茂・国枝に恩賞感状を与えた。
 重光は宗竜のあとを受けて一族の惣領となり、三河守を称した。稲葉一鉄の娘を妻として天文年間から一族を背負ってたったが、天正十二年(1584)一月討死した。子の重元は、天正六年(1578)六月、京都で戦死。重元の弟には重高・政森・重泰・泰光らがいた。そのうちの政森は修理亮を称し、本郷城主となったが、関ヶ原の役には織田秀信に従ったものの、戦に敗れ、城を焼かれ、没落の身となって慶長七年(1602)五月に死去した。



■参考略系図  
  


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧