清和源氏片切氏の支流。寿永年間に片切為行の子為綱が二郎大夫を称して飯島本郷に居を構え、その子為光が飯島姓を称した。為光は飯島郷の地頭となり、承久の乱に出陣したことが『承久記』にみえている。すなわち、飯島三郎は東山道軍に加わって攻め上り、六月十四日宇治川を渡らんとして馬を乗り入れたが、おりからの大雨の後で水嵩は増し濁流が渦巻く宇治川の激流に呑まれて流れ失せた。 飯島氏の子孫は、同族片切氏とともに向背をともにし、元弘、建武以後は信濃守護となった小笠原氏の麾下となり、北朝方として行動した。 七代為光、六代為清の兄の子正運、五代為泰の弟の子総運は三檀那といわれ、飯島氏の開基になる臨済宗西岸寺に寺領を寄進を行い、同寺を隆昌させた。また同寺は、応安六年には室町幕府より諸山の位を授かった。 十五世紀前半のころには、宗家片切氏に代わって、片切領全体をほぼ手中に納めていたらしいことが『西岸寺文書』によって想像される。 降って長禄、文正の頃(1457〜1466)、飯島大和守為宗が飯島を知行し、文明年中(1469〜86)伊予守為頼が 継承したことが『御符礼之古書』から知られる。また、これより先の応永の頃(1394〜1427)には、 若狭守為則が小笠原家に属したことが知られ、永和二年(1376)頃の古文書には次郎三郎入道宗貞・弥三郎入道・ 掃部入道の名が散見するが、かれらの系図上の位置関係は不詳である。 戦国時代 戦国時代の天文年中(1532〜54)、隣国甲斐の戦国大名武田氏が信濃に攻め入ったとき、松尾の小笠原信定の手に属して、武田軍を迎え撃った。しかし、天文二十三年(1554)武田晴信は再び伊那郡に侵攻し、知久氏領にまでその武威を輝かした。これに対して、伊那郡の諸将士は動揺し、武田軍に降る者、あるいは国外に逃亡する者などに分かれた。 そして、伊那部・宮田・殿島の三氏は晴信に滅ぼされ、飯島・片切・上穂・赤須・大嶋の五人衆は晴信に降り、五人合して五十騎の軍役に服した。 かくして、飯島氏は、甲斐武田氏の配下に入り、信州先方衆の一翼を担った。永禄十年(1567)、生島足島神社において飯島大和守為方は武田氏に起請文を出し、飯島為政は片切為房・伴野三衛門と連名の起請文を差し出している。 天正十年(1582)、織田軍の武田氏討伐戦が起こされ、伊那郡には信長の嫡子信忠の軍が攻め込んできた。結果、飯島氏らは故地を逐われた。その後、信長が本能寺で横死するち、飯島氏の支族で山県衆であった飯島作右衛門大尉、原隼人正衆の作三郎、その他飯島伝三郎、同宮内大輔らは徳川家康に帰属し、飯島右馬助、同弥兵衛らは小笠原家の家臣となった。 また、別説に従えば、飯島氏十一代為昌と十二代為直は、永禄十年小県郡生島足島神社に武田氏への起請文を出したとている。そして、戦国時代後期の天正十年、武田氏滅亡に際して為次(重家とも)は高遠城を守り、織田氏の伊那谷攻略で一族とともに戦死した。と、伝えている。 その後裔は徳川氏に属して、関ヶ原の合戦や大阪夏の陣に出陣したが、のちに故地に戻って帰農。江戸時代は、代々伊那郡石曾根村の名主役を務めたという。いずれにしろ、平安後期より、信州の地に武士として続いた飯島氏は戦国時代の荒波に翻弄され、ついには、武士を捨て安住の地を得たといえようか。 ■参考略系図 飯島氏は保元の乱に戦死(自害)した片切二郎大夫為綱に子為光が飯島太郎を称したことに始まっている。以後、 南北朝時代に「至純置文」を残した飯島為光まで代を数え、為光の子若狭守為之は大塔合戦(1400)で討死、 その子の為重が結城合戦(1440)に出陣したとある。ここまでの飯島氏系図には、世代に関しては大きな矛盾は 感じられない。 戦国時代の大和守為政と源太為直(大和守為方)は、永禄十年(1567)武田信玄に生島足島神社起請文を上げている。 (生島足島神社起請文を見ると、飯島大和守為方の名が見え、ほかに飯島与兵衛門尉為政、飯島出雲守重綱、 同名志摩守安助の名が記されている。)しかし、為政は結城合戦に出陣した為重の孫とあり、世代的に疑問が残る。 おそらく二から三代が抜けているものと思われる。それとは逆に為直のあと為安−為昌の二代をおいて、 民部少輔為次に続く。民部少輔為次(重家)は、天正十年(1582)高遠城で仁科盛信とともに討死とあり、 子の為仲は徳川家康に仕えて天正十三年の上田陣に出陣して討死とある。 飯島氏の系図をみて感じるのは、為重から大和守為政に至る室町時代の部分と、為政・為直から為次に続く 戦国時代の部分に、矛盾が感じられる。激動の時代において記録が失われ、系図が混乱したものであろうか。 |
●飯島氏系図の2
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