ヘッダイメージ



富沢氏
●丸の内対い鹿角
●桓武平氏葛西氏族
*『南部藩参考諸家譜』の富沢系図から。「三つ柏」紋を使用したとも考えられる。
 


 現在の岩手県南部から宮城県北部にかけての広大な所領を有した葛西氏は、大崎氏、伊達氏らと並ぶ奥州の戦国大名の雄であった。葛西氏は北の南部氏、西方の大崎氏、そして南方の伊達氏らと覇権を争った。しかし、戦国末期になると、領内の大身者(巨臣とも称される)である富沢・浜田・本吉・柏山ら諸氏の反乱に悩まされた。
 戦国大名葛西氏の最後の当主であった晴信は、これら巨臣たちの反乱の鎮圧に忙殺され、その状態は天正末年ごろまで続いたのである。そのことが結果として、豊臣秀吉による小田原の役(天正十八年=1590)への参陣を不可能とし、「奥州仕置」による没落につながったのである。
 葛西氏に対して再三にわたる反乱を起した富沢氏は、そもそも葛西氏の分かれと伝ええられている。葛西氏の「家臣衆列座」によれば、近習衆として寺崎氏と並んで富沢日向守がみえている。しかし、葛西氏一族とはいえ富沢氏に関する正確な系譜は伝わっていず、葛西氏家中に大きな足跡を残しながらその実態を掴むことは困難なこととなっている。
 ちなみに『姓氏家系大辞典』では葛西氏族とし、『南部藩参考諸家譜』の富沢系図には「姓藤原」とあり、その祖先のことは不詳となっている。一方『余目旧記』によれば、富沢氏は「葛西れんせい十番目の子、右馬助」に発するとされ、「葛西れんせい」は葛西満良(満信?)に比定されている。そして、右馬助は奥州探題吉良氏に従い、「三迫富沢郷を給わった」その後「富沢三迫、高倉荘七十三郷、西磐井郡三十三郷の主たり」と称されるほどの急成長を遂げたのである。

三迫領主とて勢力を拡大

 富沢氏が三迫地方を与えられた契機は、応永七年(1400)栗原郡にいた宇都宮氏広が鎌倉公方足利満兼の忌避にふれ、葛西・大崎・石橋氏らの連合軍に攻められて滅亡したことにあった。すなわち、宇都宮氏の旧領である、塩松は石橋氏が、栗原郡は葛西氏と大崎氏に分領された。その結果、一迫は大崎氏家臣の狩野氏に、二迫は同じく大崎家臣の上形氏に与えられ、三迫が大崎家臣の富沢氏に与えられた。かくして、三迫領主となった富沢氏は岩ケ崎城に拠って勢力を拡大し三迫の国人領主に成長していくのである。
 先述のように富沢氏の歴代については不明な点が多いが、『薄衣氏系図』によれば、薄衣清純の子金沢清胤の孫胤重が富沢氏を名乗ったとみえる。胤重は応永七年当時、二十九歳であったことが知られ、宇都宮氏広討伐に従軍したとしてもよい年頃である。他方、『中館系図』には葛西太守満信の子中館重信の子で、薄衣氏を継いだ清胤の子重氏が富沢重隆の養子になったとみえている。重隆はさきの胤重の子と思われ、重氏は薄衣系富沢氏を継いだものであろうか。しかし、それらのことを裏付ける史料があるわけではない。
 やがて、応仁元年(1467)に応仁の乱が起ると、三迫で葛西氏と大崎氏の間で合戦が起った。その前年にも大崎氏は三迫に侵入し、富沢氏が大崎氏と戦っている。かくして、戦国時代になると富沢氏の名が散見するようになる。
 たとえば、明応八年(1499)の明応の乱における『薄衣状』に富沢河内守、伊達氏天文の乱の最中の天文十五年(1546)には富沢金吾がみえる。他方、室町時代中期ごろの『大崎文書』には、「大崎家臣大将富沢日向守」とみえることから、富沢氏は大崎氏と接近してその家臣的立場をとるようになっていたようだ。その後、伊達氏が北進を企てるようになると、富沢氏は伊達・大崎・葛西氏ら三大名の間に位置する三迫領主として、厳しい政治対応を迫られることになる。

葛西氏への反乱

 富沢氏が明瞭な動きを見せるようになるのは、日向守貞綱、同貞運父子が活躍した戦国末期である。そして、富沢氏は葛西大守に対する反乱を繰り返すのである。その原因は明確ではないが、元亀二〜三年(1571〜72)にわたる葛西・大崎合戦で、葛西大守晴信が富沢氏の地盤である三迫まで占領した。これは大崎氏寄りの姿勢をみせる富沢氏の権威を押えようとしたものと思われ、当然、富沢氏はこれに反発したであろう。
 反乱のはじめは、天正七年(1579)春で、富沢直綱は磐井郡流荘に攻め込んだ「富沢兵乱」である。兵乱は富沢氏の優勢に進んだが、葛西大守晴信みずからが富沢征伐のために出馬してくると、次第に頽勢に追い込まれ、ついには城下まで攻め込まれ降参に至った。
 敗れたりとはいえ、その後も富沢氏は、葛西大守への対立姿勢を崩さなかった。天正十三年(1584)の夏、富沢直綱はふたたび反乱を起したが、葛西大守晴信の命によって出陣した寺崎信継によって敗れている。直綱は翌十四年にも反乱を引き起こしたようで、葛西大守に対する反骨ぶりには驚くばかりだが、その背景には大崎義兼・最上義光らの煽動があったようだ。しかし、二度にわたる反乱の失敗により、直継は一迫・金成の所領を失ったことが、『日形増子文書』から知られる。
 葛西大守によって敗北を喫したものの富沢直綱は、その後も葛西氏に対する反抗的姿勢を改めることなく、大崎氏重臣で岩出沢城主の氏家直継とともに伊達政宗に誼を通じている。直綱と政宗の交渉は、『貞山公治家記録』のなかの天正十六年から十八年における記事に散見しており、天正末期になると富沢氏は葛西氏を無視して伊達氏に接近していた。

戦国時代の終焉

 天正十六年、大崎合戦に敗れた伊達政宗は氏家吉継とともに富沢氏を重用して大崎方面に対した。同十八年に氏家吉継が死去すると、そのあとに伊達氏から小成田氏が入ってきたが、富沢日向守は小成田氏に協力して伊達氏寄りの姿勢を崩さなかった。
 やがて、天正十八年春、奥羽諸勢力の運命を決する豊臣秀吉による小田原北条氏攻めの陣が起った。伊達政宗は抜け目なく小田原参陣を果たし、小田原から富沢日向守に書状を送って、奥州仕置の見通しを伝えている。富沢日向守と伊達政宗の仲が、葛西氏家臣を越えた親密さであったことがうかがわれる。一方、葛西晴信は富沢氏や本吉氏らの反乱によって身動きがとれないまま、没落の運命となった。
 奥州仕置によって葛西氏は没落したが、その後の富沢氏の動向は不明である。富沢日向守武光(幽斎)は、あれほど親密であった伊達氏に仕えることはなく南部氏に仕え、子孫は南部氏家臣として続いた。慶長六年(1601)の「和賀兵乱」に際して、日向守武光は南部方の将として出陣し、伊達方の部将鈴木重信を討ち取る活躍ぶりをみせた。しかし、あれほど親密であった伊達氏に出仕しなかったのは、まったくの謎というしかない。
 おそらく、奥州仕置のときに見せた伊達政宗の謀略と、その後の一揆における政宗の酷薄な対応によって、多くの葛西武士が斃れていった。これをみた富沢日向守(貞運)は、政宗に対する見方をあらため南部氏に仕えたのではないだろうか。・2005年07月07日

参考資料:一関市史/葛西中武将録/戦国大名葛西氏家臣団事典 ほか】


■参考略系図
・諸書の記述をもとに作成。
    


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧