小岩氏は甲斐源氏武田氏の分かれといい、系図によれば、寛正年中(1460〜65)に、武田忠茂が室町将軍足利義政から信濃に封を与えられ、小岩郡に下向して住したことから小岩氏を称するようになったのだという。ただし、小岩氏の系図にそのように書かれているばかりで、それを裏付ける確実な史料ああるわけではない。 文明十一年(1479)忠茂の子忠行は羽州奉行人となり河辺郡に移った。忠行の子定行を経て信実・信行の兄弟のときの永正十五年(1518)、将軍家の咎を受け出羽の所領没収の憂き目となり、小岩一族は外祖父にあたる胆沢郡の柏山兵部を頼って寄寓の身となった。そして大永元年(1521)、柏山氏の推挙を受けて葛西太守政信に仕えるようになり、胆沢郡百岡に封を受けて同地に移り住んだという。 戦国時代の葛西氏は大崎氏と合戦を繰り返しており、文明四年(1472)、長享元年(1487)、明応七・八年(1498・1499)と両者の衝突が続いていた。葛西氏と大崎氏との境界地域は、常に戦雲をはらむ状態にあったのである。そして、十五世紀はじめの天文三年(1534)、信実は磐井郡荻野庄市野々村の釣尾館に、弟の信行は同郡市野城に移り、のち上黒沢城に拠った。かくして、小岩兄弟は、大崎境の鎮兵として葛西氏の要地の守備を担ったのである。このことは、小岩氏の武勇が葛西氏から高く評価されていたことをうかがわせるのに十分であろう。 実際、小岩一族は数々の合戦に出陣し、相応の手柄を立てている。天正二年(1574)本吉郡志津川城主の本吉大膳が反乱を起したとき、小岩信明は太守晴信に従って出陣して戦功をあげ、戦後、水田三千八百刈を与えられている。ついで、天正十五年の「浜田氏の反乱」に際しては、小岩信隣と同信定が出陣し、信定は軍監として活躍し磐井郡中里邑に一万五千刈の采地を与えられた。この乱には小岩信明も出陣して活躍し、栗原郡手形邑などに一万二千刈の地を加賜されている。浜田氏の乱に際して、小岩一族が活躍をしたことが知られるのである。 さて、小岩氏の系図から、小岩一族の所領をみてみると、市野々・上黒沢・達古袋・沼倉・鬼死骸・赤児・赤荻におよび、葛西氏領の西北部を固めていたことがわかる。 小岩氏の仕えた葛西氏は奥州の戦国大名として勢力を誇ったが、戦国末期になると家中の大身者らの反乱に悩まされ、それが原因となって豊臣秀吉の「小田原の役」に参陣することができず、天正十八年(1590)の「奥州仕置」によって所領没収となり没落の身となった。葛西氏の没落によって小岩氏一族も散亡の憂き目となり、下黒沢の小岩氏、達古袋小岩氏らが近世に生き残ったと伝えられている。 【参考資料:一関市史 ほか】 ■参考略系図 ・小岩氏系図、武田氏系図から作成。 |