貴志氏は紀伊国貴志荘から発祥したといい、貴志友兼(知兼)が那賀郡貴志荘の荘官となったことに始まると伝えられている。その出自に関しては諸説があるが、貴志氏はふるく吉士、吉師とも書かれたことから、難波吉士氏の後裔とも考えられる。 『貴志荘権大神縁起』では藤原魚名流とし、『豊後国清原氏系図』のなかの清原峯成に「天長十年(833)、清原姓を賜る。摂州・紀州の貴志氏元祖也」とある。峯成は平安時代初期を生きた官僚で、太宰大弐に任じたことが知られる。また、摂津国に貴志氏を称する武士団が存在し、鎌倉時代の貴志義茂は御家人に加えられ、南北朝時代の義氏は赤松氏に属して活躍したことが記録に残されている。 おそらく、貴志氏は清原姓であったものが、いつのころか藤原姓を名乗るようになったと考えられる。中世の武家は、婚姻などにより名誉な家系にみずからの氏を変更する例が多い。貴志氏の場合もその一例であろう。 貴志氏の登場 紀伊貴志氏が史料上に現れるのは、院政時代の康治三年(1144)、貴志友兼が真言宗仁和寺第四世門跡覚法法親王のために庵室を建立したということである。さきの『貴志荘権大神縁起』には、友兼の後裔という正平が安貞二年(1228)の寄進状に名を留めるという。しかし、正平は南北朝時代の正平四年(1349)、貴志荘の下司としてあらわれる。そして、正平の舎弟に政茂がみえ、その子信業は湯浅保田宗業の養子になったという。 他方、鎌倉時代の寛元年間(1243〜45)に高野山領名手荘下司職の貴志行正が史料にあらわれる。また、永仁六年(1298)の関東下知状によって貴志氏が幕府の御家人であったことが知られる。しかし、地頭ではなく下司のままであり、地頭代官として貴志荘を支配していたと考えられる。 承久の乱後、紀伊守護は三浦一族の佐原氏が任じられたが、宝治合戦(1247)で三浦氏が没落すると、紀伊守護は北条氏が補任された。その結果、貴志氏と同様の存在であった隅田荘の隅田氏が北条氏の被官の道を歩むのに対し、貴志氏は湯浅党との関係を強めていったようだ。そして、前記のように貴志政茂の子信兼は湯浅保田次郎左衛門宗業の養子となって、湯浅貴志氏を称するようになったのである。 鎌倉末期、後醍醐天皇による倒幕運動が繰り返され、元弘三年(1333)に鎌倉幕府は滅亡、建武の新政が開始された。しかし、足利尊氏の謀反によって新政は崩壊、時代は南北朝の対立へと動いた。 南北朝の争乱 動乱の時代に際して貴志信兼の子行兼は、建武五年(1338)、保田荘の地頭職を足利尊氏から賜っている。一方、建武三年に京を脱出した後醍醐天皇が吉野に潜幸したとき、湯浅氏は生地・湯浅・贄川氏らとともに天皇に供奉したという。おそらく、貴志一族は南北に分かれて、それぞれの道を歩んだものであろう。 南北朝の対立は北朝(武家方)優勢に推移したが、観応の擾乱で幕府が分裂すると、南朝方の攻勢が活発になった。観応二年(1352)、後村上天皇が京に進撃、敗れた足利義詮は京から退いたが、このとき、湯浅貴志氏は義昭詮に従っていた。文和二年(1353)、山名時氏・楠木正儀らが京に進撃、紀伊・大和・河内の南方勢力が行動をともにしたが、その中に南朝方貴志氏が加わっていた。 延元元年(1360)、紀伊南朝方は貴志谷に近い最初ケ峯に集結、北朝方畠山氏と対陣した。さらに細川氏の出陣によって、南朝方の貴志民部左衛門・大夫らが北朝に降ったが。この貴志氏は貴志荘の貴志氏と考えられている。一方、湯浅貴志氏は一族が分裂状態にあったようで、目立った活躍はみられない。 最初ケ峯の南朝軍は龍門山に幕府軍を誘い、これを破った。しかし、態勢を立て直した幕府軍の攻勢によって、ついに大将四条隆俊らは没落した。とはいえ、幕府内部の抗争もあって、紀伊は南朝方の優勢が続いた。その後、山名氏が紀伊守護になると、湯浅・隅田氏らの南朝方は次々と攻略されてその軍門に下り、貴志谷も北朝方の支配するところとなったようだ。かくして、明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、半世紀にわたった内乱は終熄を迎えた。 紀伊の一角に生きる 南北朝時代、貴志荘の貴志氏は南朝方、湯浅貴志氏は北朝方と貴志一族は分裂状態となった。そもそも武士団は、惣領を中心として一族が結合していたが、南北朝の動乱は惣領制を崩壊させ、武士団の一族分裂には深刻なものがあった。 貞治元年(1362)、湯浅貴志宗朝(道知)が高宗に保田荘地頭職ならび上貴志地頭職・下司食を譲渡している。しかし、上貴志である貴志荘は南朝方貴志氏の本領であり、湯浅貴志氏にとっては不知行の所領であった。ここらへんにも、南北朝時代における一族間の混乱がみてとれよう。 室町時代になると紀伊守護職は幕府三管領家の一である畠山氏が世襲し、南朝方として行動した貴志荘の貴志氏は畠山氏の被官になったことが知られる。また、応永八年(1401)、畠山氏が紀伊に入部したとき、湯浅貴志理宗が貴志荘河西下司職を沙汰付されている。ということは、貴志荘の貴志氏は湯浅貴志氏の下風におかれたようにも考えられる。 さらに、理宗のあとを継いだ国宗(信濃入道護吉)は、康正元年(1455)、守護畠山義就から保田荘の替地として東貴志荘下司職を返付された。これは、阿氏川で挙兵した後南朝の後胤義有王の討伐に活躍したことへの恩賞であったようだ。かくして、貴志荘は一世紀ぶりに湯浅貴志氏の支配するところとなったが、果たしてどれほど有効な支配をなしえたかは不明である。 寛正四年(1463)、紀伊守護畠山政長は将軍足利義政から追討を受けた義就を河内嶽山に攻めた。この陣に貴志信濃入道は政長に従って活躍、感状を受けている。政長と義就の抗争は、やがて応仁の乱を牽き起こし、世の中を戦国乱世に叩き込む要因となった。 乱世に呑まれる 以後、貴志氏は畠山氏に属して乱世に身を処した。永禄四年(1561)、畠山高政は六角義賢(承禎)と結んで河内に進出して三好長慶と戦った。翌年、久米田の合戦に勝利した畠山軍は、長慶の立て籠る飯盛城に攻め寄せた。しかし、三好軍の反撃によって高政は河内高屋城に退き、さらに、三好方の謀略で高政は兵を撤収した。このとき、高政に従って河内国教興寺にあった紀伊勢は退陣が遅れ、三好軍の追撃を受けた。紀伊勢は教興寺あたりで三好軍と激戦を展開したものの、湯川直光をはじめとした湯川一族、竜神・貴志・安宅・目良らの諸将、根来衆らが戦死をとげた。 その後も貴志氏は保田城に拠って勢力を維持したようだが、秀吉の紀州征伐に抵抗して没落。一族は四散、帰農したと伝えられている。・2006年11月12日 【参考資料:有田市誌・貴志川町史 ほか】 ■参考略系図 ・湯浅氏系図に見える貴志氏の系図。 |