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古志氏
花輪違/四つ目結*
(宇多源氏佐々木氏族)
花輪違は出雲佐々木氏の代表紋。 四つ目結の可能性も考えられる。


 古志氏は出雲守護佐々木泰清の第九子佐々木義信を祖としている。義信は出雲国神門郡古志郷の地頭として封じられ、地名をとって古志と改姓し、建長七年(1255)に郷内の浄土寺山に城を構えた。以来、古志氏は古志郷を中心に繁栄して、戦国時代の重信が元亀元年(1570)毛利の軍門に降りその配下となり、関ヶ原の戦の後に、古志を去るまで連綿と続いた。

古志氏の盛衰

 「戦国大名家臣団事典」の山名氏の項に、「古志」氏が記述されている。こちらの古志氏は、備後国沼隈郡本郷村大場山城を居城とした。そして、出雲国神門郡古志郷から発した、佐々木氏流古志氏の一族である。出雲を拠点とした古志氏が備後と関係をもったのは、応永八年(1401)に、古志国信が備後守護山名時熈の守護代に任じられたことに始まる。
 応仁・文明の乱が勃発すると、備後・安芸の守護山名是豊は、父宗全と次第に対立を深め、ついには父に反して東軍方に立っている。宗全死後、山名氏の惣領職は宗全の嫡孫政豊が継いだが、山名是豊はこれに対抗したため、古志為信はその間の亀裂を回避するために苦慮したと伝えられる。
 文明十五年(1483)、播磨に進駐した政豊は同十八年に至って戦線が不利に傾き、翌十九年には山名氏の播磨での領国経営の拠点であった書写山下の坂本城の攻防が重要な段階に入った。この攻防戦で為信は、父美作守久信、子宗信らが討死にするという戦功を挙げている。
 十六世紀になると、出雲の尼子氏が備後に侵入するようになり、古志氏は尼子氏に応じた動きをみせた。その後、毛利氏が安芸・備後に勢力を拡大するようになると、古志吉信は毛利家臣となった。弟の重信は尼子方として出雲・京都で活動し、永禄十二年(1569)の尼子氏再興軍にも加わっている。しかし、尼子再興は成らず、元亀元年(1570)、重信も毛利氏に降り吉川元春の配下となり山陰地方を転戦した。
 天正三年(1575)、山名氏政を推戴する但馬の有力国人衆が中国の毛利氏と「芸但和睦」を結んだ際に、重要な橋渡しの役割をはたしている。また、天正八年(1580)に織田信長の部将羽柴秀吉の但馬平定に際して起こった水生合戦(城崎郡日高町上石)に出陣、古志左衛門尉の討死にと、その合戦の勝利を賞した山名氏政の感状が古志重信に与えられている。
 天正十年以降、毛利氏は配下の諸同族の土着化を奪い、その勢力を削減するという方針を打出し、古志氏もこの毛利氏の圧迫を受け、伝えられるところでは重信の嫡子豊長は文禄元年(1592)毛利氏によって暗殺されたという。
 その後、古志氏は和田と改め、「関ヶ原の合戦」に敗れた毛利氏が周防・長門の二国に削封されて萩に移ったとき、それに従わず武士としての歴史を終えたと伝えられる。

参考資料:広島県史/戦国大名家臣団事典 ほか】

●出雲古志氏 にリンク


■参考略系図
    


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