藤原秀郷の後裔脩行が近江掾となり、やがて土着した。そして、官名の「近」と藤原の「藤」とを結び付けて近藤太と称したのが近藤氏の始まりである。藤原氏で左兵衛尉でったところから佐藤氏を生じたのと同じ型である。 脩行の孫景親は駿河権守となって、駿河島田郷に土着して島田氏を名乗ったようで島田権守とも見え、その子景重は島田八郎大夫を称した。景重はやがて伊豆に移住し、平治の乱において源義朝に従って戦死している。景重の子が国澄で、『尊卑分脈』に近藤八として見え、『源平盛衰記』には「伊豆国住人近藤四郎国澄」とある。その子国平は『源平盛衰記』や『吾妻鑑』に、いずれも「近藤七国平」と記されている。 国平は、頼朝挙兵に参加し山木攻めや石橋山の合戦に臨んでいる。その後、各地で転戦し、やがて頼朝が鎌倉へ落ち着くと、側近の一人となって同地に在住した。文治二年(1185)二月には、中原久経とともに頼朝の命で鎌倉殿御使として上京。七月末には畿内十一ケ国にわたる武士の乱暴狼藉を鎮定するために活躍している。この業務葉占領地域の拡大とともに四国・九州にも及んだ。正治元年(1199)には、罪科に処せられて讃岐国守護を免ぜられた後藤基清に代わって、国平が同職に就任している。 後藤基清は承久の変で院方についたため、鎌倉方に捕えられて死罪となったが、国平もまたこの乱後、正史のうえから姿を消している。 乱世を生きる 景重の弟島田二郎景頼の系からも近藤氏が出た。景頼の孫直景を祖とし、戦国期、徳川家康の祖父松平清康に仕えた近藤満用・乗直の父子である。「家譜」に、乗直は清康に従い三河国宇利の丸山で猟をした、そのとき鹿一頭をとらえてその角を引き裂いた。清康はその勇力に感じ入って、以後「鹿角」をもって家紋とすべしと言葉を頂戴したと伝える。以後、「鹿角」が近藤氏の定紋となった。 その後、乗直は戦場で歩行の自由をなくしたため、弟忠用が家督を継ぎ、清康の思わぬ死による、いわゆる「守山崩れ」の後、心ならずも一時期を今川義元の下に服し、やがてその子の康用・秀用が家康の自立期に介する。秀用は近藤登介を称し、この名がその後代々近藤宗家の通称となった。 秀用は三方ケ原の戦い、長篠の対武田戦に活躍し、大坂の役にも老体をひっさげて先陣として働いている。慶長八年秀用大往生のあと、宗家に五千五百石を残し、孫の用将に五千五百石などを分与した。結局大名家とはなりえなかったが、大身の旗本が分出したことになった。 国平の流れの近藤氏は、国平の子国重が承久の乱以後甲斐の万沢にいたって閑居し、正元元年(1259)同地の浅間神社神主職を勤めたという。国重の孫宗光は『太平記』に「近藤三郎左衛門尉宗光」と見え、明徳三年(1392)和州吉野において死亡している。そこで家督は弟の国光が継ぎ、以降代々甲斐に住した。戦国期は武田氏に仕え、国義の跡は武田一族の今井氏から義甫が婿養子として入り、子孫は連綿として今日に至っているという。 ■参考略系図 |
●Ver.1 系図
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