近江国栗太郡駒井荘に駒井城跡がある。これは中世における城郭跡で、いまもその遺構はある程度残存している。(1970頃)この城主は佐々木満高の二男高郷を祖とする駒井氏であった。そして、駒井氏は、応永年間から天正年間に至る約百八十年間、駒井荘六ケ村を領して、佐々木家江州南部の旗頭として、その一族は繁栄した。 駒井氏は佐々木氏に仕えて、草津の代官や矢橋代官、あるいは大津奉行など、舟運の盛んであった琵琶湖の重要な湊津を支配する役職をになった。 永禄六年(1563)春、佐々木六角氏が、小谷城主の浅井氏を攻めたとき、駒井美作守秀勝は小谷城の背後、美濃から通じる道を断つことを命じられた。秀勝は三百の手勢を率いて早船を仕立てて、伊香郡飽浦に渡り、賎ヶ岳の山麓をまわって、逸早く、小谷城に通じる間道をおさえることに成功している。 いまも、琵琶湖に浮かべた巨大な御座船の絵図や、宇治川から淀川、および木津川の水路図などが子孫に伝えられている。これをみても、駒井氏が佐々木氏の船手方を務めていたことが偲ばれるのである。 豊臣秀吉に仕える 駒井氏で知られるのは、秀勝の子の重勝で『駒井日記』の著者としても知られている。重勝は父の跡を受けて佐々木六角氏に仕えていたが、佐々木氏の没落後、豊臣秀吉に召し出されて、以後、豊臣家に仕えた。そして、大津奉行や秀吉直轄領の草津代官に任じられている。さらに矢橋の代官をも命じられ、幾多の事跡を残しているのである。 秀吉からその優れた手腕を認められて、秀吉の養子豊臣秀次に配属された。重勝は政務に堪能で、文筆にも優れた天才を持ち、処世にも長じていた。このため、重勝は秀吉や秀次の政務に尽すとともに右筆も務めた。そして、天正十九年(1591)の叙任によって、中務少輔の官途を名乗るようになった。 文禄二年(1593)、秀次としっくりいかなくなったからであろうか、秀次のもとを去って、直接秀吉に再仕するようになっている。そのため、同四年、秀次が高野山に追放され、同所で切腹させられた秀次事件には巻き込まれることはなかったのである。 そのころ、豊後国のうち、大野・直入・大分・海士辺四郡のうちに二万五千石を与えられている。さらに、伊勢国安芸郡徳田村、横地村において千三百石を加増されている。重勝は単に右筆というだけではなく、越前国の検地奉行なども務めており、秀吉の代官的役割をも担っていたことが伺われる。 関ヶ原の戦いのときは西軍に属して伏見城攻撃にも加わり、戦いのあと所領没収となり、浪人してしまった。のち、加賀の前田利長を頼って仕え、重勝自身は寛永十二年(1635)に没している。また、近江の駒井荘に住した一族もいて、その血脈を現代に伝えているという。 【参考資料:田中政三氏「近江源氏」ほか】 ■参考略系図 駒井氏の出自は不詳とするものが多いが、佐々木氏流とする系図を掲載した。 |