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小出氏
額に二八文字
(藤原南家二階堂流)


 小出氏は『藩翰譜』など後世の系図では、藤原南家二階堂氏流ということになっている。すなわち二階堂行政の九世の孫時氏が信濃国伊那郡に住んではじめて小出氏を称し、その時氏の玄孫にあたる祐重が尾張国愛智郡中村に住むようになったのだという。信濃では小井弖(小井出)と表記されることが多い。
 一方、同じ藤原南家の分れではあるが、工藤氏を祖にするものもある。『百家系図稿』「小出系図」で、工藤四郎大夫家次の孫家俊が伊那郡林村に住んで林次郎と号し、その孫の孫十郎能綱が小井弖を称したのが始まりとある。摂津守能房のときに建武頃の南北朝争乱期を迎えたようで、能房の娘は諏訪宗家の安芸守信有の妻となり、兄の子伊賀守有能の系統は代々、諏訪氏に仕えたようだ。室町時代はじめ信濃で起こった王塔合戦において、守護小笠原氏方に見方した武士のひとりに小井出薩摩守が見えている。
 尾張の小出氏は、伊賀守有能の弟藤四郎有政が尾張国中島郡に移住して小出を称したことが始まりという。子孫は尾張守護斯波家に仕え、五郎兵衛政武は永禄三年(1560)五月に尾州善照寺合戦で戦功があり、五郎左衛門政重のとき織田信長に仕えたとされる。政重の子が、小出氏の名をあらわした播磨守秀政である。
 このように、秀政の父政重までの系譜に関しては諸伝があり、小出氏の出自に関しては不詳というしかないようだ。

小出氏の出頭

 播磨守秀政は、はじめ甚左衛門と称し『多聞院日記』には「小出播磨守は大政所の妹を妻にして、太閣一段の御意合なり』と記されている。また、『寛政重修諸家譜』にも秀政の室を「豊臣太閣秀吉の姑」とあり、同じ尾張国中村出身である秀吉に早くから仕えていたことがうかがわれる。しかし、秀吉家中における同じ尾張派とでもいうべき加藤清正、福島正則らに比べて地味な印象で、いわゆる現在の総務畑的な存在であったのだろう。
 織田信長が天下統一に邁進するなかで秀吉が次第に出頭、天正十年(1582)に起こった本能寺の変後、秀吉は天下人へと大飛躍をとげることになる。本能寺の変が起ったとき、秀吉は備中高松城攻めの最中で、毛利氏と和睦するや兵を大返ししたことは有名な逸話である。姫路城で一息いれた秀吉は、ただちに明智光秀との決戦をめざして出陣していったが、その留守をまかされたのは小出秀政であった。
 光秀を倒したあと秀吉は、天正十一年、最大の競争者である柴田勝家を滅ぼして織田家中の主導権を掌握。翌天正十二年には、小牧・長久手の戦いで織田信雄、徳川家康連合軍と戦った。そして、天正十三年、四国の長宗我部元親を降伏させ四国を平定した。秀政は着実に天下統一を実現していく秀吉の側近くに仕えて、天正十三年、和泉国岸和田に三万石の所領を与えられて豊臣大名の一員となった。慶長三年(1398)、秀吉の死に際して、片桐且元とともに秀頼の補佐を依頼されているが、秀政が秀吉から厚い信頼を受けていたことを物語っている。一方で嫡男の吉政は文禄二年(1593)に播磨国龍野二万石、ついで文禄四年には但馬国出石有子山城主となり六万石の大名となっている。
 慶長六年(1600)、関が原の戦が起こったとき、秀頼補佐という立場から大坂城にいたらしく、否応なく西軍方となった。当時、秀政の嫡男で但馬国出石城主の吉政は、その所領の立地もあって、細川藤孝が守る丹後国田辺城攻撃に参加するなど西軍として行動した。対して二男の秀家が東軍に属して活躍、本来ならば戦後に所領没収もやむをえないところであったが、出石六万石の所領安堵を受けたのである。ところが慶長八年、皮肉なことに秀家は父に先立って病没、その翌年には秀政も死去したため、吉政は父の遺領である岸和田に移った。残された出石は吉政の嫡男小出吉英が領することになった。

そして、近世へ

その後、大坂の陣が起こる前年の慶長十八年に吉政は四十九歳で病没、嫡男吉英が家督を継承して岸和田藩主となった。その結果、出石は吉英の弟吉親が継ぎ、小出家は嫡流の岸和田藩と庶子家の出石藩とに分立したのである。ところが元和五年(1619)、岸和田を領していた小出吉英が出石に移封されたことで、吉親は丹波国園部に移動、園部藩が成立した。
 吉英のあと出石小出氏は、吉重−英安−英益−英及と相続したが、元禄九年(1696)に英及が僅か三歳で病死、継嗣がなかったため出石藩小出氏は断絶した。一方、園部小出氏は、奏者番、寺社奉行、若年寄など幕府の要職を歴任し明治維新に至っている。
■ 写真=出石城址、後方は有子山

●系図情報:古樹紀之房間さんのサイト。


■参考略系図

Ver.1 系図


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