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小寺氏 ●ダイジェスト
藤橘巴
(村上源氏赤松氏流)


 戦国時代、西播の有力国人として御着城に拠った小寺氏は、播磨作用庄の地頭で室町時代に播磨守護となった赤松氏の一族である。すなわち赤松祖源季房の孫頼範の四子将則を遠祖とし、将則の曽孫頼定の次子頼季が初めて小寺氏を称したと伝えられている。
 初代頼季は、護良親王の熊野落ちに勇名をはせた小寺相模である。その子藤兵衛景治は、南北朝争乱期の建武四年(1337)の山城八幡の戦いで恩智某と戦って戦死しており、『太平記』にもその名が見えている。
 赤松円心の長男貞範は、播磨国の姫山に城を築いた。これが、のちの姫路城の原形となる城で、同城は代々小寺氏が守り姫山城と呼ばれた。その後、小寺氏は永正十六年(1519)新たに御着に城を築いて移り御着城主となり、西播磨に勢力を培った。ちなみに、御着城時代の小寺氏の家老は黒田(小寺)重隆で、その子が黒田如水(小寺官兵衛孝高)だったことはよく知られている。
 嘉吉元年(1441)赤松宗家の満祐が将軍義教を殺害、世にいわれる「嘉吉の乱」が起こった。満祐は京都の自邸を焼き払い、播磨に下国し坂本城に籠城した。この事変に際し、小寺氏も宗徒八十八騎の一家として参集したことが『赤松盛衰記』にみえている。このとき小寺職治は、満祐から備前口の備えとして上原・薬師寺ら八百騎の大将を命ぜられている。しかし、松田・勝田氏らの謀反によって備前口の備えは崩壊、最後は城山城に拠って自殺した。
 職治の子豊職は、赤松氏再興のため、南朝の神璽奪回に活躍した赤松遺臣団の一人である小寺藤兵衛のことであるという。豊職は応仁の乱で赤松政則の奉行人として活躍し、孫の則職を姫路城に置き、自身は御着城に移った。

戦国動乱の時代

 応仁の乱をきっかけとして、世の中は下剋上が横行する戦国時代となった。赤松氏家中では重臣浦上氏の出頭が著しく、主家赤松氏を凌ぐほどになった。
 永正十五年(1518)七月、守護赤松義村は浦上宗助の子で守護代村宗を三石城に討とうとした。このとき、村宗方には備前・備中・美作三ケ国の国人衆が集まり、義村に戦いを挑んだ。翌永正十六年にも赤松義村は浦上氏を攻めたが城を落とすことはできなかった。この間、豊職の子の政隆は赤松氏に属し、浦上村宗、別所就治らと戦い庄山城で討死している。
 赤松義村は、浦上方の美作粟井城と岩屋城を小寺則職に命じて襲撃させた。このとき、小寺軍を迎え撃ったのは浦上村宗の重臣宇喜多能家で、小寺則職の軍は飯岡で宇喜多軍に敗れている。その後、小寺則職は岩屋城を攻めたが敗れ、一方、村宗はこの勝ちに乗じて守護赤松義村を捕え、播磨の室津に幽閉し、ついに大永元年(1521)七月義村を暗殺した。
 則職の子政職は義村に背いた浦上政宗を三石城に攻め、その追い落としに功があった。政職は黒田職隆・孝高(官兵衛)父子をはじめ、多くの有能な人材を登用し、播磨国内での小競り合いを着実に制して勢力を拡大し、西播磨の戦国大名に成長するのである。
 やがて、東から織田、西から毛利の勢力が伸びてくると、家老黒田官兵衛孝高の助言に従い一旦は織田方に付いた。その後、毛利氏の部将浦兵部宗勝が率いる毛利軍五千を千の兵で撃退し、信長から感状を与えられた。この合戦は、のちに秀吉の軍師として竹中半兵衛と並び称された官兵衛の作戦による勝利でもあった。
 しかし、三木城の別所長治の毛利方寝返り、摂津有岡城主の荒木村重の反乱などに動揺し、官兵衛の言を入れず、毛利方に寝返った。その後、三木城・有岡城が相次いで陥落したのを見て、城を捨てて逃亡、行方不明となった。備後の鞆に落ちていったともいわれる。小寺政職の子氏職は黒田氏に仕え、子孫は黒田藩士として存続した。

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