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小堀氏
輪違いに花菱
(藤原氏秀郷流)


 小堀氏の名字の地は近江国坂田郡小堀村で、藤原氏秀郷流と伝える。すなわち俵藤太秀郷の後裔にあたる。左近将監光道のとき、小堀村を領し、はじめて小堀氏を名乗るようになったという。
 正次は『寛政重修諸家譜』によれば、天文九年(1540)の生まれで、はじめ浅井氏に仕えていたが、天正元年に浅井長政が滅んだため、羽柴秀長に仕えるようになった。秀長の所領が大和にあったとき、正次は葛上・宇知二郡の内で三千石を領していた。
 『寛政重修諸家譜』の正次の項に、「慶長五年東照宮上杉景勝を征したまふのとき供奉し、下野小山にいたる。これより御麾下に列し、九月関ヶ原の役にもしたがひたてまつり、十二月旧領を賜ひ、備中国において一万石を加増あり。すべて一万四千四百六十石余を領し、台命によりて備中の国務をつかさどり、松山城を守り、…後略…」とあるように、正次は備中総代官として備中松山城に入り、城の復興を行っている。
 正次のあとを継いだのが政一である。かれは茶人として、また作庭家として、さらに築城家として有名な遠州で、名護屋城や駿府城の天主閣造営などに腕を振るっている。なお、政一が小堀氏発祥に近い近江国東浅井郡小室に移されたのは元和五年(1619)で、『寛政重修諸家譜』には「五年頼宣卿の封地を紀伊国にうつさるるにより、仰をうけたまはりて彼地にいたり、国務をはかる。この年備中国の旧地を近江国浅井郡のうちにうつさる」とある。
 政一のあとは正久がつぎ、正久は弟に分知し、後代にも分知が続いて一万石を割り、大名の列からは外れた。そして、政方にいたって改易となり宗家は断絶している。
 小堀氏の家紋は政次の代は「鶴の丸」ついで「丸に卍」を、政一のとき「輪違いに花菱(花輪違い)」に変えられ、以降、小堀氏の紋は「花輪違い」に定着した。


■参考略系図
  


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