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園田氏
洲浜/三つ巴
(藤原北家秀郷流足利氏族)


 藤原氏秀郷流で、上野国山田郡園田村から起こり藤姓足利氏・大胡氏などと同族関係になる。すなわち、渕名大夫兼行の子成行が足利大夫を名乗り、その子成実が山田郡園田村を与えられ園田七郎を称して園田氏の祖になった。以後、子孫は上野で繁栄した。
 南北朝期、新田義貞とともに鎌倉攻めに参加した新田十六騎の一人に園田秀澄がいる。秀澄は義貞に属して、摂津豊島の合戦などに活躍を示し、延元三年(1338)越前において戦死した。

戦国時代を生きる

 十六世紀はじめ、園田成光は桐生城主桐生重綱に攻められ、小倉鹿田の地を奪われた。園田氏の勢力では桐生氏に及ばず、成光は太田金山城主の横瀬国繁に応援を依頼して遺恨を晴らそうとした。国繁は園田氏と桐生氏とは系譜的に同族関係でもあり、同姓の好みをもって和睦を進めたが重綱は聞かず、却って兵を起して園田氏を討とうとした。成光の嫡子秀光は横瀬国繁に援軍を求めると、一族を指揮して防戦につとめた。桐生勢は国繁に敗れて退去し、園田氏は危機を脱するとともに倉鹿田の地を回復したのである。
 以後、園田氏は横瀬氏に属するようになった。文明三年(1471)、古河公方成氏が国繁入道宗悦に与えた御書によれば、「薗田上下之庄知行不可有相違云々」とあり、薗田は新田(横瀬)に属したことが知られる。さらに、国繁入道は家督を業繁に譲ってのち薗田領吉沢郷に屋形を構えて隠居、園田氏は国繁入道の恩顧を受け入魂を深くしたという。成光のあとを継いだ秀光は横瀬業繁に属して、長享二年(1488)、古河公方成氏と管領上杉顕定とが戦った武蔵国高見原の合戦において成氏に味方して出陣した業繁に従い、戦功を上げている。
 戦国時代の永禄三年(1560)、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東管領上杉憲政を擁して関東に出馬してきた。このとき、関東諸将が景虎の陣に馳せ参じた。景虎は参陣してきた関東諸将の陣幕を記録した『関東幕注文』を作成したが、そのなかに園田氏の幕紋も記されている。ひとつは横瀬氏麾下の薗田新七良で「すはまにうりの文」であり、ひとつは桐生衆の薗田左馬助で「すはま」とある。当時、園田氏は嫡流が由良氏麾下にあり、庶流が桐生氏麾下にあったことを示している。
 天正二年(1574)、右京亮秀政は由良成繁に属して谷山の合戦において上杉輝虎方として活躍、秀政の子秀重は由良国繁と小田原北条氏との合戦において功名をたてた。その後、国繁は後北条氏に転じ、天正十二年(1584)、弟の長尾顕長とともに小田原に囚われの身となった。そして、天正十八年の小田原の陣において、国繁と顕長は後北条方として行動した。その結果、小田原開城後に国繁は所領を没収され、園田氏もともに所領を失い没落の憂き目となった。・2007年04月24日

参考資料:桐生市史  ほか】


■参考略系図
 


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