桐生氏は藤原氏秀郷流足利氏の流れで、足利忠綱の弟綱元を祖にするといわれる。桐生氏の系図は数種類のものが伝わっており、いずれもその出自を秀郷流藤原氏としていることは諸本一致している。それらの系図類は桧杓山城を築いた桐生国綱を中興とする「佐野氏流」と、貞和五年の利根川合戦において足利尊氏より軍忠状を賜った桐生又六郎入道行阿を中興とする「新居氏系図」に大別される。 しかし、系図によって桐生氏の世代や名乗については区々多様である。たとえば、佐野氏流系図では、豊綱・親綱が佐野氏から養子に入ったことが記されているが、佐野系図にそれを裏付ける記述は見当たらない。系図類の記述を鵜呑みにはできないが、それぞれが何らかの歴史的真実性を伝えているようではある。 ちなみに佐野氏流系図が祖とする綱元の父という足利俊綱、兄にあたる忠綱の父子は源頼朝に反した源義広の乱に与して没落しているが、その乱に綱元の存在は見いだせない。一方、系図集として信頼できる『尊卑分脉』にも綱元の名はないことなどから、桐生氏を秀郷流足利氏であるという説は検討の余地があるようだ。 おそらく桐生氏は、足利俊綱・忠綱父子に仕えていながら、野木の宮の戦いに敗れた俊綱・忠綱父子を殺害、俊綱の首を鎌倉に持参したものの頼朝から不忠者として斬られた桐生六郎の子孫と考えるのが妥当なようだ。六郎はその存在を裏付ける記録も残っており、自らは頼朝に斬られたが妻子郎従はおかまいなしと下文されているので、その子孫は桐生に住むことができた。しかし、主君を斬った人物を先祖とすることを嫌って、出自を秀郷流足利氏の分かれに粉飾したものと考えられる。 桐生氏の登場 桐生氏の動向が明らかになるのは南北朝の内乱期で、観応元年(1350)、桧杓山に実城(本城)を築いたと伝えられる国綱からである。国綱は居城を定めると、円山の南麓より浅間山の西麓山まで水路を開いて、渡良瀬川と桐生川を結び要害堀として、桐生氏発展の基礎を築いた。そして、家臣の谷直綱に命じて高津戸城主山田則之を滅ぼし、高津戸を支配下においた。この国綱から五代目の豊綱は佐野国綱の二男といわれ、桐生氏へ養子入りする際に桐生川東の菱地区を引き出物として付けられ、三十騎の家臣を具して桐生入りしたと伝えられる。以後、助綱に至るまで佐野氏を名乗っており、桐生氏は佐野氏の分家という観があった。 南北朝時代のはじめ、関東には幕府の出先機関である鎌倉府がおかれ、足利尊氏の二男基氏が鎌倉公方に任じ、以後、基氏の子孫が公方を世襲した。そして、鎌倉公方を支える管領職を上杉氏が世襲する政治体制が確立した、この鎌倉府体制に桐生氏も組込まれ、室町時代はじめの応永二十七年(1420)、鎌倉公方足利持氏から地頭職に補されている。 ところが、鎌倉公方足利氏は代々京都の将軍家に対抗する姿勢を示し、ともすれば不穏な空気が流れた。両者の決定的な対立を回避するために尽力したのが管領上杉氏であったが、足利持氏は上杉氏を幕府寄りとして忌避するようになり、永享十年(1438)、上杉氏が鎌倉を退去したことをきっかけに争乱が勃発した。世にいう永享の乱で、幕府が上杉氏を支援したことで敗れた持氏は自害、鎌倉公方家は滅亡した。 持氏の遺児春王丸と安王丸は常陸に逃れ、結城城主の結城氏朝は兄弟を結城城に迎え入れて兵を挙げた。これに、持氏恩顧の関東諸将が加担したことで一大戦乱となった。「結城合戦」と呼ばれる争乱で、桐生氏は幕府方に加わり、桐生正綱の弟正俊(在俊)が兵を率いて参陣した。永享十二年(1440)の穂積原の合戦に正俊は負傷し、一族郎党にも負傷者を出す活躍を示し、戦後、正綱は大将の上杉清方から感状を受けている。 かくして、鎌倉府は管領上杉氏が首班として機能するようになったが、関東諸将は上杉氏の勢力が拡大することを嫌い、鎌倉公方家の再興を願った。そして、ただひとり残っていた持氏の遺児が許されて成氏を名乗って鎌倉公方の座についた。しかし、成氏は父や兄を滅ぼした管領上杉氏と対立、享徳三年(1455)、上杉憲忠を謀殺したことで「享徳の乱」が勃発、公方成氏と管領上杉氏との戦いが関東各地で展開された。 打ち続く争乱 幕府は上杉氏を支援する立場で乱に介入、鎌倉を失った成氏は古河に奔り「古河公方」となった。以後、上杉=幕府勢と古河公方勢は古利根川をはさんで対峙し、上杉方に属した桐生氏は名代として谷近綱が五十子の陣に参陣、近綱は公方勢との戦いで戦死している。 関東が享徳の乱で揺れている一方で、京では応仁の乱が勃発、時代は確実に戦国乱世へと推移していった。打ち続く関東の争乱は、国人と呼ばれる勢力の台頭を促し、下剋上が横行するようになった。文明十四年(1483)、享徳の乱が終熄したが、間もなく、山内上杉氏と扇谷上杉氏との対立が生じ、長享の乱へと発展した。この乱世のなかで、勢力を拡大したのが小田原を本拠とした伊勢宗瑞(北条早雲)であった。 桐生氏が急激に躍進をみせるのは、正綱から三代目の重綱の時代である。渡良瀬川上流の黒川山中・小倉鹿田までを領有するようになった重綱は、五蘭田城を攻め松崎左衛門を降し、娘婿として配下に加えた。この松崎左衛門は、永正七年(1510)の権現山の戦いに重綱の名代として出陣して戦死した。ついで、重綱は園田成光を攻撃し小倉鹿田の地を奪ったが、成光を応援する横瀬国繁との戦いとなり桐生勢は敗れたようだ。その後の永正十二年、荒戸野の鷹狩りにおいて重綱は落馬し死去したという。 重綱のあとは真綱が継ぎ、真綱は古河公方足利政氏に属した。真綱の代になると、小田原を本拠とする新興の北条氏が勢力を拡大し、世の中は戦国時代の様相を濃くしていた。そのようななかの大永二年(1522)、真綱は利根川の南、須賀の戦いにおいて讃岐六郎太郎を討ち取ったが、弟の新居三郎次郎が負傷している。 この真綱のあとを継いだのが助綱だが、佐野氏流系図では助綱が重綱のあとを継いだとあり、戦国期の桐生氏の系図は混乱を見せている。ともあれ、桐生氏の家督を継いだ助綱は直綱とも称し桐生氏歴代のなかでもっとも傑出した人物で、この助綱の代に桐生氏は絶頂期を迎えるのである。 助綱の活躍 天文初年(1530〜1540頃)、仁田山赤萩地方を回復した助綱は、上総から桐生に浪人していた里見上総入道を仁田山赤萩の将として取り立てた。ついで、天文十三年(1544)菱の細川内膳を滅ぼし、つづいて細川内膳の義兄にあたる膳因幡守と間の原に戦いこれを撃ち破った。このように、桐生助綱は領地を拡大、桐生氏の全盛時代を現出した。 永禄三年(1560)、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が、かねてより庇護していた関東管領上杉憲政を擁して関東に出馬してきた。助綱は景虎の陣に参じ、古河に残った近衛前嗣・上杉憲政の警固にあたり、のちに京都に帰った前嗣から丁重な謝辞を贈られている。また、景虎は参陣してきた関東諸将の幕紋を記録した『関東幕注文』を作成したが、そのなかの「桐生衆」の筆頭に助綱が記され幕紋は「かたくろ」と記録されている。かたくろは「酢漿草(かたばみ)」とする説もあるが、幕紋の染め方を表現したものであろう。以下、安威式部少輔「梶のは」、薗田左馬助「すハま」、佐野殿(昌綱)「かたくろ」、津布久常陸守「すハま」、山越大膳亮「きつこう」、新居「鷹のは」、松崎太和守「根篠」、阿久沢対馬守「丸之内三ツすハま」などの桐生衆の名前と幕紋が記されている。 桐生衆のなかに、佐野昌綱が含まれていることが興味深い。佐野氏は佐野衆として認識されてもおかしくない勢力を持っていたが、古河公方との関係もあって後北条氏に加担していた。しかし、佐野氏は桐生氏と養子縁組があったことから、桐生氏に属して謙信の陣に馳せ加わったものと想像される。このように助綱は、渡良瀬川北部の山地帯に勢力を振るったが、南部の下山田・新田の平坦地方は金山城を拠点とする由良成繁が勢力を誇っていたため、平野部への勢力拡大は思うにまかせなかったようだ。 そもそも由良氏は横瀬を称して新田岩松氏の家老の地位にあったが、岩松氏の衰退とともに勢力を拡大、ついには岩松氏を凌ぐ存在になったものである。かつて助綱は、桐生領の広沢郷より新田庄への用水権を横瀬泰繁が安堵されたことから、那波・長野・成田氏らと結んで泰繁を攻撃したことがあった。泰繁のとを継いだ成繁は、岩松氏を倒すと横瀬から由良に改め、一躍勢力を拡大して上州の戦国大名に成長した人物で、その声望と力量は助綱のそれを越えていた。 とはいえ、桐生助綱と由良成繁とは、重綱の代のように戦いを交えることはなかった。それは、助綱もまた一角の名将であったこと、桐生城が堅城であったことが大きかった。その後、成繁は上杉陣営を離れて後北条=古河公方方に転じた。そして、永禄九年ごろ、助綱も成繁にすすめられて古河公方義氏に転じ、四年後の十三年五月に五十九歳で没した。 桐生氏の衰退 助綱は男子がなかったため、生前に佐野昌綱の子(二男とも五男ともいわれる)親綱を迎えていた。助綱の養子となった親綱には、荒井主税之助、茂木右馬之丞、山越出羽守、津府子形部の四人が佐野から後見として付いて来た。やがて、永禄十三年に助綱が死去すると、親綱が桐生氏の家督となった。 親綱は助綱には遠くおよばない人物で、親綱の後見役の四人が諸々の仕置をまかせられ、四人は譜代の家老である谷右京や大屋勘解由左衛門などを無視して、これまでの桐生氏の諸法度を廃止しもっぱら新法を行うようになった。そのため、桐生家中は乱れ、将士民心は離反した。そして、心ある侍は桐生から退去し、残ったのは新参者ばかりという状態になってしまった。その結果、家中に喧嘩口論が絶えず、些細なことでも評定に取り上げる始末となった。しかも、不公平な裁決が多く、訴訟が起こると勝者からは礼金を取り、敗者からは過料銭を取るという理不尽なことが横行した。 この事態を憂えたのが、仁田山の里見上総入道(実堯あるいは勝広)であった。上総入道は桐生に来て助綱に仕え赤萩の出城を与えられた人物で、新参ながら助綱から桐生氏の柱石として厚い信頼を受けていた。入道の嫡子は随見(勝政)、二男は勝安といっていずれもひとかどの人物で、里見一族は親綱に対して書付けで意見を申し上げたのである。 入道の諫言を知った四人衆の山越と津府子は、ことあるごとに上総入道のことを親綱に讒言した。親綱は上総入道の意見を取り上げないばかりか、山越らの讒言を信じて里見親子を憎むようになった。それと察した上総入道は出仕が滞りがちになり、ついに随見と勝安の兄弟は越後に退出して音信不通になってしまった。兄弟の無断出奔を怒った親綱は上総入道に「生害」を命じ、入道は自害して果てた。ここに至って、桐生家中には親綱に諫言する者はいなくなり、家中はいよいよ乱れた。 このような桐生氏の乱れをみた由良成繁は、重臣の大沢下総守、林越中守、藤生紀伊守らを呼んで、「このまま桐生城の乱れを見過ごせば他所から馬が入り桐生領が奪い取られるれら日は遠くない。そうなれば厄介であり、桐生城を攻略しようと思っている」ことを告げ、攻撃軍の大将に藤生紀伊守を命じた。紀伊守は桐生城内の縁者と連絡をとって内応を約束させるなどの手を打ち、天正元年(=元亀三年)三月、出陣した。紀伊守は人数を三手に分けると、天神森、もくら山の麓、東山の峰を通って三方から桐生城へ押し寄せた。対する桐生勢は山越出羽守が五十人ばかりを率いて、桐生勢のなかへまっしぐらに駆け入って、縦横に切ってまわった。しかし、多勢に無勢、ついに力尽きて討死した。つづいて、広瀬、木村、岩下なども皆討たれ、親綱は津府子を供として城を脱出、実家のある佐野に逃れ去った。 桐生氏の滅亡 こうして、桐生城は由良氏が治めるところとなり、天正二年(1574)、成繁は古河公方から正式に桐生城を宛行われた。金山城を嫡子国綱に預けて桐生に入部した成繁は、地侍を残らず召し寄せ、津府子・山越と親しかった侍は追い払い、百姓、町人でも桐生氏に忠義だてする者は全員追放した。そして、神社・仏閣へもそれぞれに気を配ったので、「御慈悲のある仰せ」と喜ばない者はいなかったという。 天正六年、成繁が死去すると、佐野にいた桐生親綱は桐生に潜入して旧臣らを語らって桐生城奪還を図ったが、応ずる者はなく旧領回復も夢と終わった。これは、成繁の戦後処理が領民の信頼を勝ち得ていた結果であった。結局、親綱は桐生城を回復できないまま、慶長三年(1598)に死去し桐生氏は滅亡した。一説に寛永九年(1632)に死去したともいう。・2007年04月24日→・2007年05月30日 【参考資料:桐生市史/群馬県史 ほか】 ・お奨めサイト… 現代語訳 新田老談記 ■参考略系図 |