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木内氏
月 星
(桓武平氏千葉氏族)


 木内氏は、千葉六党の一つである東胤頼の二男胤朝が下総国香取郡木内庄を領して木内を称したことに始まる。とはいえ、木内氏はもともと上総氏の一族で、上総権介常澄の子常範が木内庄を領して木内を称していたものである。上総氏流木内氏は、鎌倉時代に東庄の地頭職として入部した東胤頼と入魂となり、胤頼の二男胤朝に娘を嫁がせて木内氏の所領を譲ったとされる。

鎌倉時代の木内氏

 胤朝は承久の乱で北条氏に属して上洛、宇治川の戦いで大功があり、戦後、但馬国磯部庄と淡路国由良庄の地頭職を授かった。胤朝の嫡男・胤家は摂家将軍藤原頼嗣に仕えた。寛元元年(1243)、将軍家が不意に外出するとき、御家人がこれを知らずに供奉に遅刻することがままあり、月の上旬・中旬・下旬で当番制とした。その上旬の担当に「木内次郎」が見えている。
 寛元二年、前将軍・藤原頼経の密議が発覚し、翌年に将軍・頼嗣ともども京都へ送り返される事件が起こった。このとき、京都への護送に胤家が供奉している。
 胤家の嫡子景胤は、歌道に通じていたことが知られるが、それは、下総東氏の影響を受けたものと思われる。景胤のあとは胤氏が家督を継いだ。この胤氏のとき「元弘の乱」が起り、胤氏は新田義貞の鎌倉攻めに参加し、千葉宗家の千葉介貞胤の命によって米野井蛇峰山に城を築いて、二男胤継に守らせた。
 胤氏の嫡子胤軌は早世したため二男胤継が家督を継ぎ、千葉氏四老臣の筆頭に列せられ、米野井城を守り二千貫を領した。胤継の嫡子胤康は南北朝の動乱の中で戦功をあげ、恩賞として印西庄に所領を与えられている。胤継・胤康父子はともに歌道に長じていたと伝わり、木内氏の代々は東氏の一族らしく歌に長じた人物が多かったようだ。

戦乱のなかの木内氏

 その後、木内氏は千葉氏の重臣として続き、胤儀は弟の胤徳とともに千葉介胤直を重臣として支え、関東を戦国時代にたたき込んだ享徳の乱(1455〜)に遭遇した。千葉介胤直は円城寺尚任らとともに上杉方に属し、庶流の馬加康胤は原胤房とともに公方方に属して胤直と対立した。康正元年(1455)、胤直は馬加康胤らに敗れて自害、胤儀も胤直に殉じて自害した。その後、千葉介は馬加康胤が継承すると、病気で米野井城に残っていた胤儀の子胤敬が召し出され、原・鏑木氏とともに「千葉三家老」と呼ばれることになった。
 享徳の乱は、やがて長尾景春の乱を誘発させ、千葉介孝胤は景春に加担した。文明十年(1478)、扇谷上杉氏の執事太田道灌は、武蔵千葉自胤・太田資忠らを大将とする軍勢を下総に送った。これを孝胤は境根原で迎撃、両軍の間で激戦が展開された。結果は孝胤方の大敗に終わり、木内胤邦、原二郎ら数百人の将兵が討死を遂げた。敗れた孝胤は臼井城に籠城、このなかに胤敬も加わり、寄手の大将太田資忠を討ち取る戦功をあげた。この功に対して胤敬は、古河公方成氏から上総国武射郡坂田城を与えられ、そこを居城とした。
 享徳の乱後、山内、扇谷の両上杉氏が対立するようになり、長享の乱が勃発した。打ち続く、関東の戦乱を縫って、台頭していきたのが小田原を本拠とした後北条氏であった。一方、古河公方家でも内訌が生じ、下総に奔った足利義明が小弓御所として武田・里見氏らに推戴された。このころ千葉氏は、安房から上総への侵攻を目論む里見氏と抗争しており、明応元年(1492)、胤敬は五井原に小弓御所の軍を撃破し、翌年にも義明の軍勢を五井原に打ち破った。しかし、義明を支援する里見義成の軍勢に坂田城を包囲され、乱戦のなかで胤敬は矢に当たって戦死してしまった。
 胤敬のあとを継いだ嫡男胤邦は米野井城に拠った。すでに時代は戦国乱世であり、天文七年(1538)、千葉氏は後北条氏と連携して小弓御所を擁した里見氏、武田氏らの房総勢と下総国国府台において激戦を展開した。胤邦は境根原において戦死したため、叔父胤衡が木内氏の家督となった。他方、木内氏は譜代の重臣たちを米野井城周辺に配置したが、重臣山室氏は上総の実力者に台頭、居城飯櫃城を中心とした山室軍団ができあがっていた。

木内氏のその後

 国府台の合戦後も里見氏との抗争が続き、永禄七年(1564)、胤倫は里見義弘と矢作城で合戦し敗れて寺山城に逃れた。その二年後、上総国久留里城を攻め落としたが、里見勢の反撃を受けて次男胤憲とともに戦死した。その翌年、胤倫の嫡男胤章は米野井城を正木時忠に攻撃されて戦死した。
 胤章が戦死したとき、米野井城にあった孫の小太郎は乳母に抱かれ、虫幡四郎・田部兄弟らとともに大須賀氏の松子城へと逃れることができた。一方、米野井城陥落の報を聞いた胤章の嫡男胤統も松子城を訪れて再起を図り、大須賀氏の援軍とともに米野井城を取り戻すことに成功した。
 胤統は兵法に通じ射撃をよくしたため、武将として将来を嘱望されたが、米野井城を取り戻して間もない永禄九年(1556)小弓城において討死を遂げた。いまだ二十七歳の若さであった。このとき弟胤光も兄とともに二十四歳の若さで討死した。このように、木内氏は里見氏との戦いで代々の当主や一族の多くが戦死していった。
 父や一族を失った小太郎は、外祖父長沢重致の庇護を頼るべく香取郡千田庄多古へ向かった。その後、木内軍団の重鎮山室勝利の居城上総国武射郡飯櫃城に向かい、元服して勘解由胤良と称して木内氏を再興した。しかし、木内氏の勢力はもはや衰退しており、天正十八年(1590)の小田原合戦で千葉宗家が没落すると、武士を捨てて帰農したという。・2007年05月29日

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■参考略系図
●胤衡から胤章に至る世系の異説。

大炊介 壱岐守 能登守 右馬助 余七郎 勘解由
胤衡──胤寛─┬胤倫─┬胤章─┬胤統──胤良──胤致
   三郎太郎│   │小次郎│        彦太郎
       ├弥次郎└胤憲 └胤光(八郎)
       └寛親(与市)

    


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