ヘッダイメージ



紀州津田氏
●菊 水*
●称楠木正儀後裔  
・秀吉の根来攻めで戦死した津田監物は、菊水の紋の付いた幟と刀剣を残して息絶えたという伝説がある。  


 ここでいう津田氏は、紀伊国名草郡和佐庄の東にある都賀郡小倉庄にあった吐崎城主の津田氏である。津田氏は、真義真言宗の本山である紀州根来寺における武力集団=僧兵を率いた、杉之坊・岩室坊、泉識坊など四坊の旗頭の一家であった。いわゆる根来寺の家老格で、地方大名級の勢力を誇った。

鉄炮傭兵集団─根来衆

 根来寺は、大治元年(1126)高野山の覚鑁上人が、紀州の土豪平為里より寄進された岩出荘に建立した寺院。保延六年(1140)上人は、七百人の弟子を連れて高野山より根来に移り、同寺を真義真言宗の根本道場としたことに始まる。室町末期=戦国初期には寺領七十万石を有する大大名的な存在であった。
 根来寺は、その領地を自衛するために根来衆と称される二万の僧兵を抱え、最盛時には、坊舎八十余、建造物二千七百を数えた。そして、根来塗什器をはじめ衣服を自給し、鉄砲弓矢を山内で生産していた。まさに、戦国大名といえる存在であった。
 根来衆を束ねる四坊の旗頭の一つである津田氏の監物算長(『鉄砲記」によれば、杉坊某公と記されているが、おそらく同一人物であろう)は、熊野船に乗って紀州と種子島との航路を往来し、根来寺の力を背景に貿易を盛んに行っていた。算長は中国語・ポルトガル語を解したといわれ、種子島にもたびたび訪れていた。
 天文十三年(1544)三月、種子島に渡った算長は種子島の島主種子島左近大夫時堯から鉄炮一丁を得て根来に持ち帰った。そして、算長はただちに、それを基に根来西坂本の芝辻鍛刀場・芝辻清右衛門妙西に複製を命じ、翌年に紀州第一号の鉄炮が誕生したと伝えられている。算長の弟明算は根来寺の子院「杉之坊」の院主をつとめ、算長の命を受けて根来衆の武装化を進めていった。
 こうして、根来寺は最先端の武器である鉄砲を生産、鉄砲の操作と販売を全国的に行い、みずからも鉄砲を中心とした戦術をもって戦国時代における最強の武力集団に成長した。また、根来衆は鉄炮傭兵集団として、各地の戦国大名に雇われて戦に出ることも多く、その存在は無視できないものであった。  

津田氏の出自考察

 ところで、根来衆の旗頭であった津田監物家の出自は、楠木正儀の三男津田周防守正信の後裔と伝える。河内・和泉はもとより、紀伊には楠木氏の後裔を称する家系が多く、正儀の子孫というものも少なくない。したがって、それぞれの家が伝える家系伝承も一様ではなく、それぞれどこまで信頼できるもなのかは分からないというのが実状である。ちなみに『古代氏族系譜集成』所収の「熊野連楠木 池田氏」系図によれば、正儀の子津田正信というのは、実は津田摂津守当麻武信の子で、正成の猶子になったもので、河内国交野郡津田に居住したとし、その子孫は記されていない。
 他方、和田法眼良宗の子正秀が、やはり正成の養子となり、正儀の子の一人に掲げられており、その子大饗正盛-楠正蔭-正俊-正孝-南条算長と続き、算長の子算正が津田監物を名乗っている。そして、算正は高野山に住んだとみえる。これによれば、算長は正信の直系ではなく、かつ南条氏を称しており、その子算正兄弟が津田氏を名乗ったことになる。後裔を称する家によって、その家系伝承が異なっている。家系図のひとつの伝承例として興味深いものといえよう。
 ところで、正信の子孫にあたる監物算長は享禄年中(1528ころ)に大隅の種子島に至り、天文十二年(1543)に伝わった鉄砲の操作、製造法を習得した。そして、天文十三年に帰国した算長は根来坂本村に住んで、鉄砲の製作および砲術の訓練に励んだという。この説は算長に関するさまざまな話しが混乱していて、そのままに信じることはできない。ただ、算長は津田流砲術の祖となっており、我が国の鉄砲の歴史に画期をなした人物であったことは疑いない。
 永禄十一年(1568)、算長は享年六九歳で没し、太郎左衛門算正が家督を継いだようだ。ちなみに、算長は算正をはじめ、杉之坊明算のあとを継いだ自由斎照算、四郎大夫有直らの男子があった。算正はのちに代々の名乗りである監物を称し、根来衆のなかで重きをなした。

根来寺の有力者、津田氏

 根来寺は大名並みの勢力を持っていたとはいえ、武田氏、上杉氏、あるいは織田氏といった戦国大名とは違っていわゆる寄合所帯であった。そして、同寺には杉之坊・岩室坊・泉識坊などの多数の子院があり、なかでも津田明算が率いる杉之坊、岩室坊清誉が率いた岩室坊の勢力が強かった。また、根来衆のうちには紀北の雑賀衆とも関係が深いものがあり、その内部は一枚岩というものではなかった。信長と本願寺が戦った石山合戦にも各勢力ごとの利害に応じて、織田方につく勢力、また本願寺方につく勢力というように複雑な様相をみせている。
 根来寺とも近い雑賀郷の雑賀衆は本願寺に味方して信長と対立したため、信長の征伐を受け圧倒的な信長軍のまえに雑賀孫市らは降伏した。天正五年(1577)、織田信長は監物算正を泉州日根郡佐野城の定番とし、雑賀衆への備えとした。
 天正十年六月、本能寺の変で信長が横死して、部将の羽柴秀吉が信長の後継者としてにわかに台頭してきた。秀吉は対立する柴田勝家・滝川一益らを倒し、着々と信長後の立場を確立していった。秀吉の台頭を快く思わない織田信雄は、徳川家康を頼んで反秀吉の兵を挙げた。天正十二年(1584)、根来寺の優秀な軍事力に目をつけた徳川家康の依頼に応え、小牧・長久手の役には、同じ紀ノ川流域の鉄砲集団雑賀衆とともに、豊臣秀吉の背後を脅かした。ところが、家康と秀吉が和睦に及び、天正十三年(1585)、秀吉の紀州征伐が開始されるに至った。
 これに対して根来衆は、雑賀・太田(紀)の党と手を結び、二万の兵をもって秀吉の進撃を阻止しようとした。対する秀吉軍は十万の大軍であった。これら紀州連合軍の最前線の城は泉州にあった。千石堀、積善寺、畠中、沢をはじめ山手・浦手に築いた十二の城であった。
 天正十三年(1585)三月、岸和田の南に進攻した秀吉軍から戦端が開かれた。秀吉軍が動きだし、秀吉軍は武者声をあげて四方から攻め寄せた。と、それを待っていたように籠城軍から大筒が発せられ、銃弾が炸裂した。当時、根来衆雑賀の鉄砲に関しての技は定評があり、その名人ともいえる射撃によって寄手の軍勢は絶鳴をあげて吹っ飛んだ。まさに、紀州連合軍の勢いは盛んであった。しかし、ここに不運に見舞われることになる。すなわち、秀吉軍の一翼をになっていた羽柴秀次の手兵・吉田孫介の射込んだ火矢が城内の硝煙蔵に燃え移った。千石堀の城は、一瞬、大音響をあげて爆発した。紀州連合軍の敗走はこの瞬間から始まった。

根来寺を訪ねる

・数少ない当時の建造物-多宝塔 ・根来寺の紋-三つ柏 ・激戦を物語る建物に残った弾痕址 (2002/08)



根来寺炎上、津田氏のその後

 三月二十三日、大手口坂本城門、搦手口桃坂城門を突破した秀吉軍のために、さしもの根来衆も敗北、根来寺は炎上の憂き目にあった。かろうじて根来寺を逃れた津田監物算長は、高野街道と村道との分岐点近くまで落ちたところで討死したという。
 監物算長の子の監物重長は、増田長盛、浅野長政や小早川秀秋に仕え、小早川氏断絶後は美濃加納城主松平飛騨守忠隆に仕えたという。子の重信は小早川秀秋・富田修理大夫、ついで松平摂津守忠政に仕えた。そして、その子六郎左衛門算長のとき、主家断絶となり、算長は那賀郡新荘村に住んで大庄屋を務めた、と『紀伊続風土記』に記されている。根来寺潰滅後の津田氏は、主家運に恵まれず転変のすえに、故郷である紀州に定着したのであった。
 津田氏は算長の流れのほかに、重長の弟市兵衛の後裔、自由斎の後裔などがあり、かれらの子孫が那賀郡重行村、市場村、神田村や名草郡松島村など紀伊のいくつかの村に移り住んだと伝えられている。幕末期から明治前期にかけて活躍した津田出もそのような津田一族の後裔といわれている。・2005年03月25日


■参考略系図
紀州津田氏の系図は諸説あって、一定しないようだ。「家系系図研究の基礎知識」に紹介されていたものを参考として掲載。
【別説】
楠木正儀─┬楠木四郎正秀
     └津田周防守正信──春行・・・

               (太郎左衛門)          (那賀郡新荘村大庄屋)
・・・・津田監物算行┬監物算長┬監物算正┬監物重長─荘左衛門重信─六郎左衛門算長
          │    │    └市兵衛
          │    ├津田自由斎
          │    │(杉之坊照算)
          │    └津田四郎大夫有直
          └津田明算=照算
          (杉之坊)
    


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧