君島氏は系図によれば、桓武平氏千葉氏から分かれた大須賀氏の一族となっている。 大須賀胤信の八男成毛八郎範胤は、宝治元年(1247)、北条氏と三浦氏が合戦におよんだ「宝治合戦」に際して、その正室が三浦一族・津久井泰行の娘であったことから、三浦氏に荷担して北条氏と敵対した。敗戦後は、鎌倉を出奔して下野の宇都宮頼綱を頼り、下野国芳賀郡君島村に住んで「君島」と改めた、このとき名も範胤から嗣胤と改名した。範胤改め嗣胤は、弘長元年(1261)八月七日、五十八歳で亡くなった。範胤の子範泰は祖父三浦泰行の一字をもらっていたためか、乱のあとに成胤と名を変えている。 以後、君島氏は下野国に定住し、代々宇都宮氏などと縁組みを重ねて強固な地盤を築きあげ、黒磯方面にまで勢力を拡げるにいたった。 君島氏の軌跡 成胤の子胤時のころに南北朝の内乱期に遭遇し、胤時は新田義貞に属して、三河国矢作川の矢合せで功があり、正六位下備中守に任じられている。しかしその後は、北朝方に寝返って足利尊氏に仕え、合戦上手で知られた子の綱胤は尊氏から感状を賜っている。その後、尊氏と弟の貞義が争った「観応の擾乱」が起ると、尊氏方に味方し、上野国那和郡において足利直義方の部将桃井直常の郎党長尾左衛門尉と戦って戦死した。 君島氏は祖母井・風見らの庶家とともに宇都宮氏家中において千葉氏流大須賀党を形成し、紀・清両党に継ぐ勇猛な軍事集団として宇都宮家中に重きをなしていた。康暦二年(1380)、小山義政が乱を起したとき、宇都宮基綱の先鋒には君島備中守・祖母井信濃守・風見源右衛門ら大須賀党が名を連ねていた。また、君島備中守は知胤に比定され、その室は宇都宮基綱の妹であった。 こうして、戦国時代には宇都宮家の重臣となり、君島広胤は天文十八年(1549)九月、名将・那須資晴との戦いで戦死した。広胤の室は、清党の領袖である芳賀刑部大輔孝高の娘であった。また、広胤の弟慶繁は宇都宮光明寺・桂運寺の開山となっている。 次の高胤も宇都宮氏に仕えて、永禄年中、結城晴朝との合戦に出陣、猿山で功を挙げた。このとき、赤埴綱雄・同綱安、塙大膳・竹林淡路守らも先鋒として功を挙げている。天正十三年 (1585)、壬生上総守(介?)義雄・同大門左衛門・鹿沼綱勝らが北条氏直に与して謀叛を企てた。高胤は玉井高宗・同権大夫・加藤大隅守らと千本城に拠って、壬生義雄らの勢を妨げ、日河合戦において功を挙げている。ところで、壬生氏の出自は不明点が多いが、初代胤業を大須賀党の惣領家にあたる君島氏の出自とする説もある。 その後、益子紀七郎が北条氏の誘いで反逆、宇都宮国綱は高胤を将としてこれを追討させ、高胤はその功により益子城を賜った。高胤の子家宗は益子氏の跡を継ぎ、天正十七年、芳賀高武・多功綱継・笠間綱家.塩谷由綱らと密かに謀った宇都宮国綱に攻められ、かなわず討死、家宗の代で益子氏は滅亡した。 天正十八年、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めの軍が起された。宇都宮国綱をはじめ、佐竹義宣・同東中務らは小田原に参陣し、後詰めの軍となった。高胤も芳賀成高とともにこれに従って軍功を挙げ、小田原開城後に秀吉から感状を賜っている。 豊臣大名の一員となった宇都宮国綱は、文禄元年(1592)の朝鮮出兵にも出陣して、釜山において戦功をあげた。ところが、浅野長政による太閣検地の結果、所領申告に不正があったと摘発され、慶長二年(1597)九月、突如、秀吉の命によって改易の処分を受けた。この背景には、長政からその子長重を嗣子にという提案を拒否したため、それを恨んだ長政に仕返しをされたのだという。いずれにしろ、宇都宮氏は改易となり、君島氏ら家臣も離散の運命となった。 ■参考略系図 ・群書類従に所収の君島系図を参考にしました。家紋も同じく。 |