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保田(安田)氏
追洲流
(清和源氏頼光流)


 安田氏は、甲斐国山梨郡安田より起こった逸見清光の子義定が安田三郎を名乗ったことに始まる。安田義定は、 源平合戦に先だって源頼朝から遠江守護に任じられ、寿永三年二月源義経に属して須磨一の谷において平氏と戦 い戦功を挙げた。幕府成立後に誅殺された。その子孫は遠江・信濃・石見・肥後などに広まったという。 そのうちの一流が、紀伊国在田郡保田庄に住して戦国時代を経て徳川旗本家となっている。

保田(安田)氏の興亡

『続風土記』によれば、安田義定の子に忠義があり、その曾孫忠宗は保田荘の地頭職に補された。忠宗の子権守宗重は保田庄と併せて湯浅荘を領し、文永年中の禁裏の火災に際して、士卒を率いて馳せ参じその功により「十六葉裏菊」の御紋を賜わったと伝える。
 宗弘のとき、畠山氏に属して軍功があり、河内国倶禾庄誉田など四ケ村を与えられた。その後、保田氏は土居城から七山城に住し、知宗の代には在田郡八幡山城に拠った。その後、知宗は佐久間玄蕃允に属し、越前国に住して、天正十一年四月近江国賤ケ岳の合戦で討死した。
 知宗の跡は弟の繁宗が継ぎ、若狭守を称した。もとは高野山華王院住職であったが、賤ケ岳合戦で戦死した兄知宗の遺領を継承、紀伊保田庄を知行して、大和大納言豊臣秀長に仕えた。のち大和竹田などで加増されて三千五百石。その後、家督を繁宗に譲り隠居した。文禄三年(1594)主家断絶後は、繁宗とともに豊臣秀吉に直仕した。
 繁宗は伊賀国名張郡四濃野城に居住し、文禄元年家督を継承して保田庄を知行した。同年、秀吉の朝鮮出兵に際して肥前名護屋へ出陣。秀吉の死後、慶長十一年(1606)九月山城国追分において徳川家康に拝謁し、 旧領三千五百石を安堵され徳川旗本に列した。同十九年使番に任命され、丹波国篠山に出張している。
 その後、宗雪−宗郷−宗恒と続いたが、宗恒の子縫殿介が亨保八年正月、嗣子なく夭逝したことから、保田氏は断絶した。

出自の謎

 ところで、紀伊保田氏の系譜を見た場合、『尊卑分脈』にみえる安田義定の子に忠義は記されていない。また、系譜の名前をみると、紀伊国の名族湯浅氏のそれと似た名前が並んでいるのである。ちなみに『姓氏家系大辞典』には、保田氏について、「湯浅氏の族なり。寛政系譜に「知宗、弟 繁宗(若狭守)−則宗(伊賀名張郡西濃野城、後 保田庄、三千五百石)−宗雪(美濃守)−宗郷(越前守)−宗恒−某(縫殿助)、家紋 追洲流し」と記している。
 また、『続風土記』保田荘領主條に「源頼光の末孫に保田太郎忠宗あり、保田荘の地頭職たり。忠宗の子 権守宗重、湯浅荘を領し、併せてこの地を領す。宗重の子孫 後に断絶す。将軍尊氏、那賀郡貴志荘の地頭職 貴志氏を以って、この地を領せしむ。貴志氏、よりて辻堂村に住す。天正十三年、豊臣氏に滅ぼされ、羽柴美濃守に属す」とみえる。
 紀伊保田氏を清和源氏の裔と断定することには、若干の抵抗が残るといえよう。



■参考略系図
・『寛政重修諸家譜』より


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