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高河原氏
●角折敷に揚羽蝶
●称桓武平氏維盛流  
 


 紀伊国東牟婁郡古座の地に割拠した中世武家に高河原氏がいた。高河原は高川原、高瓦とも書き、熊野水軍として代々紀伊国塩崎荘中湊(古座浦)に住した。系図によれば、平清盛の嫡孫小松中将維盛の子孫ということになっている。『紀伊続風土記』も、「三位中将平惟盛の遺孫にして代々塩崎荘に居住す」と紹介されている。東牟婁郡色川郷の色川清水氏も維盛の後裔を称しており、高河原氏の出自も世いわれる平家落人伝説の一つに位置付けられるものであろう。
 高河原氏の出自に関して、『姓氏家系大辞典』では古代豪族忌部氏の後裔とする説が紹介されている。忌部氏は古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた。氏族は多数に及び、九州・紀伊半島・四国・房総半島などに広まり、阿波国吉野川流域に繁衍した。
 阿波国の一宮神社である忌部神社と大麻比古神社はともに古代の忌部氏に縁りの神社であり、大麻比古神社は「麻」を神紋としている。阿波忌部氏は栽培した木綿や麻などを朝廷に献上し、それら麁服(あらたえ.麻布)として大嘗会の用に供された。正慶元年(1332)、光厳天皇の大嘗祭に高河原藤二郎大夫が麁服を調達したことが知られる。高河原藤二郎は阿波忌部氏の一族と思われ、高河原が歴史に登場するはじめての人物である。
 やがて、南北朝時代になると、阿波忌部氏は南朝方として活動した。高河原氏も南朝方として行動、熊野に渡り伊勢北畠氏とともに戦い、ついには塩崎荘中湊に土着したようだ。一方、『阿波故城記』には「高河原殿、久米平氏、紋立二引龍十文字」とり、阿波にも高河原氏の一流が続いたようだ。

高河原氏の軌跡

 戦国時代の高河原摂津守貞盛は、伊勢の国司北畠具教に仕えた。十六世紀になると、熊野地方では堀内氏が台頭し、周辺に兵を出すなどして勢力を拡大していた。元亀二年(1571)、大田荘を押領した堀内阿房守氏虎は口室に攻め入った。貞盛は小山加賀守らに助勢をたのみ、田原村にて堀内勢を迎え撃った。戦いは高河原の不利に展開したが、敵将の椎橋新左衛門を討ち取ったことで、高河原方の大勝利となった。
 天正四年(1576)、北畠氏が織田信長によって滅ぼされた。貞盛は織田家に仕え、石山本願寺攻めに参戦し軍功があった。『南紀古士伝』には、『摂津守、織田信長の家臣滝川伊予守に属し五幾内にて軍功あり』とみえ、その功により摂津守に任じられたのだという*。いま、古座浦城の跡地にある青原寺に摂津守の墓と伝えられる五輪の石碑が遺されている。
* 兵庫県在住という高河原氏からのメールによれば、古座町文化財委員会発刊の『古座史談』に、大坂に於ける石山本願寺の法難に際し、高河原氏等は門主顕如上人に加勢して信長と戦ったとあり、本願寺より高河原・小山氏に礼状と樽二つを送られたと言う文書が残っているとのこと。また、高河原氏が摂津守に任じられたのは、織田信長の家臣滝川伊予守に属した軍功によりというのは間違いという。すなわち、文献等に元中九年(1392=明徳三年)、南帝が京に還御したとき高河原摂津守等八荘司が従ったとあることから、南北朝時代に南帝摂津守を賜ったものと考えられるという。さらに、高河原氏は「丸に三つ柏』を用いられれ、その他「丸に橘」「丸に扇」「丸におもだか」など、それぞれの高河原氏が使用する家紋はばらばらとのこと。  

 豊臣秀吉が天下をとると、弟の秀長が紀州・大和の太守となった。貞盛の子帯刀家盛は熊野七人侍の一人として秀長に仕えた。文禄の朝鮮の役に際しては、堀内阿波守氏善に属して渡海、竹島における軍功で太閤秀吉の御感に預かったという。関ヶ原の合戦において西軍に属したため浪人、その後、紀州の領主となった浅野氏に、子の小平太喬盛とともに仕えた。
 大坂夏の陣に出陣した喬盛は、泉州樫井村で輪六郎兵衛重政を討ち取ったというが誤伝であろう。元和五年(1619)、浅野氏が紀伊から安芸・備後に移封されると、それに従い、千五百石の知行をえた。ところが、その後舎弟五郎左衛門定盛を広島に残し、みずからは暇を乞い古座に帰った。こうして、高河原氏の嫡流は古座に居住し、喬盛の嫡子小左衛門唯盛は地士に命ぜられ、子孫は熊野七人士の一人として続いた。しかし、江戸時代の安永二十四年頃、高河原氏本家は断絶したという。
 広島に残った定盛の系は高瓦に改め、代々浅野家に仕え塩田奉行を命ぜられ、子孫は現在に続いているという。・2006年11月12日

●記述にあたって、くすのき村さんを参考にさせていただきました。


■参考略系図
・和歌山県立図書館蔵書をベースに作成。
 


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