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生地氏
●扇に日の丸/四つ目結
●古代豪族坂上氏流  
・四つ目結は石井氏系の家紋と思われる。  


 生地氏は「おんじ」と読み、恩地とも書かれる。伝えられる系図によれば、桓武天皇の世に活躍した坂上田村麿の後裔ということになっている。坂上田村麿の子広雄の孫仲澄なる人物が近江国に采地を享けたが、その後、家運は衰えてしまったという。
 鎌倉時代に至って、孝澄が幕府に仕え、その子朝澄は承久の乱に活躍して紀伊伊都郡相談賀荘に采地を得た。いわゆる新補地頭に補任された朝澄は、伊都郡に下向し禿村東岡に居城を築きみずからの居城とした。やがて、居城は畑山城と呼ばれ、坂上氏は紀伊に土着したのであった。朝澄の孫長澄、その子尹澄は伊都郡司となり、坂上氏は伊都郡の有力者に成長した。そして、尹澄のころより坂上を改め生地を称するようになったという。
 とはいうものの、生地氏のはじめは坂上豊澄が覚鑁から相賀庄の庄官として下司職に任じられたことに始まるようだ。相賀庄は長承元年(1132)、鳥羽上皇が高野山の覚鑁の住房である密巌院領として寄進されたもので、東を隅田庄、西を官省符庄に接していた。坂上豊澄の祖父経澄は、寛治年間(1087〜93)に官省符庄の政所所司を殺害して所領没収のうえ追放に処された人物だが、坂上氏が古くより伊都郡に一定の勢力をもっていたことをうかがわせている。

生地氏の登場

 坂上氏は高野山と対立関係にあったようで、鎌倉時代はじめの嘉禎年間(1235〜38)に坂上知澄が高野山側に殺害されている。この事件の背景には、古くより坂上氏が掌握していた丹生都比売神社に納められる神馬の管理権をめぐる争いがあった。そして、知澄の子盛澄は高野山によって神馬の管理権を失う結果となっている。その後、坂上氏と高野山との間で妥協が成立したようで、盛澄は一族とともに町石の建立を行っている。やがて、室町時代になると「相賀河南一族」なる武士団が登場してくるが、おそらく鎌倉期には坂上氏を中心とした武士団が成立していたものと思われる。
 ともあれ伝によれば、尹澄の代に元弘の争乱が起こった。尹澄は河内の楠木正成の妹を娶っていた関係から、子の安澄とともに正成に属して千早赤坂城に籠って幕府軍と戦った。隣接する隅田庄の隅田一族は幕府方として活動しており、尹澄らは隅田氏との抗争を続けた。やがて、幕府が滅亡して後醍醐天皇の親政による建武の新政が開始された。しかし、新政は足利尊氏の謀叛によって崩壊、南北朝の対立時代を迎えると尹澄・安澄父子は楠木正成とともに南朝方として行動した。
 建武三年(1336)、九州で再挙を図った足利尊氏が西上の軍を起こすと、尹澄は正成とともに摂津湊川で尊氏軍を迎え撃った。そして、尹澄は正成とともに華々しく討死した。尹澄の遺志を継いだ安澄は、楠木正行と行動をともにしたが、正行が四条畷の戦いで戦死したのちは紀州に帰り正平四年(1348)に死去したという。
 安澄の子盛澄、その子益澄らも南朝方として活躍、元中年間(1384〜92)、益澄は千早城で戦死した。かくして生地一族は没落の運命となり、益澄の子俊澄・今菊兄弟は流浪のすえに摂津の池田教正を頼った。坂上生地氏が南朝方として行動した背景には、楠木氏との関係もあったことは疑いないが、宿敵である高野山が武家寄りの立場にあったことも大きかったようだ。換言すれば、生地氏は南朝に与することによって高野山に対する有利な立場を確保しようとしたのであろう。

乱世に呑まれる

 南北朝の争乱において、生地氏は挫折を味わうことになった。その後、紀伊守護職に任じられた畠山基国に属して活躍、将軍足利義満より旧領相賀を賜り、紀伊北口三軍の旗頭となった。永享のはじめ(1429〜33)、俊澄は畑山城を川北に移した。新城は相賀新城あるいは銭坂城と称され、以後、代々の生地氏の居城となった。こうして、俊澄は生地氏を復興し、中興の主と呼ばれるにいたった。しかし、俊澄以後、生地氏の動向は知られなくなる。紀伊守護畠山氏に属して戦乱の時代を生きたことは疑いないが、生地氏を語る史料は遥として見当たらない。
 十六世紀のはじめ、生地氏に家督争いが起こった。俊澄から六代の孫秀澄には男子がなかったことから、二人の弟忠澄と篤澄の二派に分かれて家中争ったのである。天文八年(1539)、忠澄が篤澄を殺害して家督となった。ところが、天文十三年、篤澄の子政澄が忠澄を殺害して家督を継承した。まことに、惨憺たる抗争のすえに生地氏は忠澄のもとに統一されたのであった。
 このころ、紀伊守護畠山氏は勢力を失墜、中央政界では尾張の織田信長が勢力を伸長した。その後、畠山氏が滅亡すると生地吉澄は信長に通じ、さらに信長死後は豊臣秀吉に属した。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こると、吉澄は近江に出陣、同地で戦死したと伝えられている。かくして、生地氏は没落の運命となった。伝によれば、吉澄には小太郎なる男子があり、のちに清水村の大庄屋となり姓を北川と改め、子孫代々、清水村に住したと伝えられる。・2006年11月12日→2007年11月27日

参考資料:伊都郡誌/橋本市史/政所一族と隅田一族/和歌山県史・中世編 ほか】


■参考略系図
・伊都郡誌/橋本市史などから作成。
  


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