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紀 氏
九枚笹/熨斗*/菊*
(紀伊国造直系)
*いずれも、日前国懸神社の境内に据えられていた紋。


 紀氏は和歌山県にある日前国懸両神宮の社家で、その歴史は気が遠くなるほど古い。紀氏は古代から紀伊国に威武をふるっていた出雲族の王家で『古事記』や『日本書紀』『古語拾遺』『紀伊続風土記』などの記録によると、神武天皇が近畿内平定ののち紀州の国王(国造)に封じられた天道根命の直系子孫である。神話の時代を含めると、なんと二千年以上もの長い歳月をくぐり抜けて、いまもなお日前国懸の神に仕えている。
 これほどの古い家系を今に伝えているのは、天皇家よりも遥かに古いといわれる出雲の千家・北島の両家。それと、この日前国懸両神宮の司祭者である紀家、あるいは、阿蘇神社の大宮司である阿蘇家ぐらいのものであろう。

紀国の古代豪族-紀氏

 古代の紀国は、木国であり、また紀氏の国でああった。
 紀氏が神話の世界から歴史のうえに足を踏み出してくるのは、大和朝廷から紀伊国造に任じられてからである。以来、紀氏は紀ノ川流域に形勢された豊穣な農耕地帯を押さえて、政治活動を繰り広げてゆく。また、紀州沿岸から瀬戸内海におよぶ海人集団(水軍)をもその配下に掴んでいた。
 そして、紀氏が大和朝廷のなかで、異例とも思える発展をみせるのは景行天皇の三年、天皇の命を受けて紀伊国の阿備柏原に赴いた屋主忍男武雄心命と紀伊国造莵道彦の娘、影媛とのあいだに生まれた武内宿禰を始祖とする武内流紀氏が大和朝廷の中央貴族として根を張り枝を広げるようになった頃からである。
 以後、大和朝廷にあって、新羅との戦いに紀大磐らが活躍し、大磐は新羅と戦いながら、任那・高麗の地を股にかけて勢力を蓄え、ついには神聖王を称した。大磐の率いる軍は百済王の軍兵を打ち破り、大和政権からは謀叛と受け止められ、大磐は朝鮮半島でその生涯を終えたという。 まさに、壮大な野望に身を委ねた古代の武人であった。
 紀氏は大磐のあとも朝鮮半島に進出している。欽明天皇の頃、紀宿禰男麻呂が出兵しているが、大磐ほどの活躍はしめしていない。そして、欽明天皇の十二年(550)に任那日本府が滅び、崇峻天皇の四年、任那日本府再興の軍兵を男麻呂は委ねられるが、この準備中に崇峻天皇が曽我馬子に殺害されたことから出兵は中止となった。以後、紀氏の朝鮮出兵はない。
 その後、大化の改新がおこり、諸国の国造を廃止する制が定められた。同時に臣・連・伴造などによる族制的な支配を改め、天皇制を中心にした官人の組織によって、各地の人民・土地を支配下におこうというものであった。tまり、国造がいままで行っていた行政も、朝廷の官人である国司・郡司がとるというのだ。
 紀氏もこのとき、所領を官に召し上げられているが、出雲国造家と紀伊国造家だけは、すでに消滅したはずの「国造」に任じられている。もっとも、それは国造という職名だけで、神事のみを管掌せよというものであった。こうして、隆盛をたどってきた紀氏であったが、大化の改新に遭遇してその伸長は阻まれることとなった。
 以後、奈良時代-平安時代-鎌倉時代-室町時代と、紀氏は国造という肩書きのみをもって、神事に年月を費やすばかりの存在となった。
・紀国造が神主を勤める日前神宮の社殿

紀氏の戦国武将化

 その紀氏がふたたび活気を漲らせてきたのは、国造六十四代の紀俊連のころからである。紀氏は国造という祖先以来の日前国懸両神宮の祭祀をこととしてきたが、室町中期になるころには兵馬の道にたずさわり、神領の所々に城を築いて外敵に備えるようになった。太田・秋月の城が閑静したのもこの頃である。紀氏は神官とはいえ、地方大名ほどの領地を有していて、その領土を狙って周辺の土豪たちが爪をといでいた。世はまさに戦国時代の様相を呈していたのである。
 六十七代忠雄が国造職を継いだころになると、戦国時代の風雲が吹き荒れていた。そして、紀氏も秋月・太田城のほかに忌部城、熊ケ碕城、弁財天城、冬野城、里江城などを構え、一族の者や神官をそれぞれの城に籠らせていた。
 それらの城へ、ときおり雑賀党が攻めてくることもあった。紀氏と雑賀党は所領が隣接していることもあって、境界付近で紛争が絶えなかった、そしてその抗争は、数代にわたるものであった。しかし、いたずらに、地方豪族同士が抗争に明け暮れている間に、時代は大きく動いていた。
 すなわち、中央では織田信長が天下統一を目指し、中道で家臣光秀によって倒れた。信長の遺業を受け継いだのが、主君の仇光秀を山崎に破った秀吉であった。秀吉が天下取りを目指しているとき、根来・雑賀集は秀吉の対抗勢力と手を握っていた。小牧・長久手で秀吉が徳川家康・織田信雄連合軍と戦ったときも、家康に気脈を通じていた。
 そして、家康らを降した秀吉はその鉾先を紀州に向けてきた。ここに至って、根来・雑賀・太田(紀)の党は手を結び、二万の兵をもって秀吉の進撃を阻止しようとした。対する秀吉軍は十万の大軍であった。これら紀州連合軍の最前線の城は泉州にあった。千石堀、積善寺、畠中、沢をはじめ山手・浦手に築いた十二の城であった。

秀吉の紀州侵攻

 天正十三年(1585)三月、岸和田の南に進攻した秀吉軍から戦端が開かれた。秀吉軍が動きだし、秀吉軍は武者声をあげて四方から攻め寄せた。と、それを待っていたように籠城軍から大筒が発せられ、銃弾が炸裂した。当時、雑賀・根来衆の鉄砲に関しての技は定評があり、その名人ともいえる射撃によって寄手の軍勢は絶鳴をあげて吹っ飛んだ。まさに、紀州連合軍の勢いは盛んであった。しかし、ここに不運に見舞われることになる。すなわち、秀吉軍の一翼をになっていた羽柴秀次の手兵・吉田孫介の射込んだ火矢が城内の硝煙蔵に燃え移った。千石堀の城は、一瞬、大音響をあげて爆発した。紀州連合軍の敗走じはこの瞬間から始まる。
 三月二十三日、根来寺炎上。翌、二十四日、秀吉軍は太田城攻撃を開始した。城に立て籠る者、城主太田左近をはじめとする太田党、近在の男女あわせて五千任であった。太田党の反撃は強硬で、すいに秀吉は水攻めを決意し、城のまわりに大堤防を築いて紀ノ川の水を引き込んだ。水は奔流となって流れ込んだ。そして、四月二十四日、太田城は開城した。
 頼みとする太田城を失った国造・紀忠雄は神霊を抱いて高野山の寺領、毛原の里に遁れた。勝利をつかんだ秀吉は、日前国懸両神宮の社殿をことごとく破壊し、紀氏の神領を没収した。忠雄がふたたびこの地に立ち戻ってくるのは、大納言秀長の手によって仮殿が建てられてからである。そして、忠雄は仮殿が出来てから三年後に死去した。
 日前国懸両神宮の社殿が旧社地に復旧されたのは、それから四十二年後の寛永四年。紀州藩主徳川頼宣の命によってであった。このとき、頼宣は国造忠光に社領四十石を与えた。以後、紀氏は日前国懸両神宮の神官としていまに血脈を伝えたことは冒頭に述べた通りである。
・太田城祉の碑

国造-紀氏の情報


■参考略系図



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