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三田氏
●三つ星一文字
●不詳
・近世三田氏の系図より。「丸に抱き柏」を用いたとも記されている。
 


 中世の胆沢郡前沢城主であった三田氏は、代々葛西氏の重臣柏山氏の家老職を務めて戦国時代に至った。三田氏の出自・系譜に関しては不明な点が多く、三田氏初代といわれる将監の前沢就封の時期についても記録は全くない。
 三田氏が仕えた柏山氏の出自も不明な点が多い。『平治郎盛春説』によれば、寿永二年(1183)平家没落の時、京都から奥州に落ちた平次郎盛春は、奥州合戦後に奥州総奉行となった葛西清重の取扱によって、鎌倉に出仕するようになり千葉左近明広と改名したのだという。「明広(盛春)が世に出たことを伝え聞いた旧家臣らは、明広のもとに馳せ参じてきた。一番に筑紫国から駆け付けたのが三田将監で、明広は将監に伊沢の内三千石を与えて前沢に差し置き云々」とある。伝説的ではあるが、ほかに記録のないことからこれを信じるしかない。以後、三田氏は前沢城主として、十六代、約四百年間にわたって前沢を領したのである。
 三田氏が歴史に登場するのは、室町時代初期の応永七年(1400)のことで、宇都宮氏広の乱においてであった。氏広の乱に際して三田三郎丹波守高盈は、葛西方として参戦し三迫合戦に功をたて、伊沢郡数カ所を領するようになったという。
 高盈は氏広の乱の翌年に四十六歳の若さで死去し、重道が家督を継承した。重道のあとは、系図によれば重国─重恒─重近─主計頭重明─刑部少輔義広─義勝と続いたという。 その間、柏山氏に属して奥州の戦乱に身を処したことは疑いないが、三田氏の動向は必ずしも明確ではない。

三田氏の豪勇

 三田氏がその豪勇ぶりを見せるようになるのは、十五代三田主計頭重明の代であった。重明は天文二年(1533)より永禄六年(1563)まで家督にあり、その人生は伊達氏が奥州の覇者として大きく台頭した時期と重なっていた。伊達氏十四代稙宗は、奥州守護に任じられ奥州大名中で第一等の地位についた。稙宗はいまの福島県北部、山形県南部、宮城県中部までを所領とし、その勢力圏はさらにそれをうわまわるものであった。
 ところが、伊達氏に思わぬ内乱が勃発した。天文十一年(1542)、稙宗と嫡子の晴宗とが対立、これに伊達一族ならびに家中、南奥の諸大名がそれぞれに加担したことで「伊達氏天文の乱」に発展したのである。乱は奥州を二分して天文十七年までつづき、奥州戦国時代に特筆される大乱となった。  この乱に際して柏山氏・三田氏が属する葛西氏も二派に分裂し、葛西晴清は稙宗方に味方し高信は晴宗方に味方した。柏山明吉は晴宗派として行動し、三田重明も高信に属して晴宗派として参戦、軍功をたて感状を受けている。また、このように葛西氏は三田氏と蜂屋氏・大内氏らの功に対して書状を送っているが、かれらは柏山氏の重臣であり、葛西氏が柏山氏ではなくかれらに直接書状をおくっているのは、三田氏らが胆沢の実力者であったためと思われる。一方、当時柏山氏と葛西氏とは対立関係にあり、葛西氏が柏山氏の内部攪乱を図ろうとしたためとする説もある。
 重明のあとを継いだ三田刑部少輔義広も豪勇の武将で、「知略武略アリテ主家ノ危機ヲ救ヒ、領内ノ内乱ヲ鎮ム、威功一世ニ振ウ」と称された。義広は太守葛西晴信、主家柏山明吉に仕えて戦場を駆け巡り、父重明以上の武功を重ねて「三田歴代武将中の武将」であった。元亀二年(1571)、胆沢郡・磐井郡に争乱が発生、その鎮圧に義広は比類のない働きをしたということで、大守晴信より二万刈という類のない恩賞を給わっている。
 そのようなころ、柏山明吉が死去したことから柏山氏に内紛が起った。明吉のあとを継いだ嫡男明国は性暴慢なことから家中が揉めはじめ、家臣は弟の明宗を擁して引退を迫った。これに対し明国は引退を迫った家臣らを惨殺し、さらには隣国の長部氏を攻撃して大敗北を喫したりした。戦国時代後期の葛西氏領では、巨臣とよばれる富沢・本吉氏らの反乱が頻発し、柏山氏の内訌が与える影響も大きかった。この事態にあたって、義広は明宗派として事態の収拾に奔走し、明宗の家督相続に貢献した。
 天正元年(1573)、南部一族の九戸政実が南下して胆沢の北部金ケ崎で合戦が起った。葛西晴信は九戸氏の南攻を阻止するため兵を出したが、そのなかに三田義広も加わっていた。義広の活躍によって南部勢は兵を引き上げ、戦後、晴信から恩賞を宛行われている。

三田氏の滅亡

 三田義広は柏山氏の重臣として、また大守葛西氏に忠節を尽くして各所の戦いに出陣、その豪勇ぶりをみせた。 ところが、天正十六年(1588)主家柏山氏に逆意を抱いていると讒言され、それを信じた柏山明宗は小山明長・折井明久らに命じて、三田義広討伐の軍を発した。三田氏は柏山家の創立当初からの重臣として主家を支え、代々忠誠の家柄の人であった。この事態に永徳寺と正法寺の両僧が明宗を説いたため、明宗も得心し両僧に調停を一任した。ところが、両僧の前で三田父子は切腹してしまった。
 三田氏討伐の理由は『岩手県史』によれば、息子の義勝が大崎家に仕官したからというが、その詳細は不明である。とはいえ、柏山氏にすれば、家臣である三田氏が葛西氏からたびたびの恩賞にあずかり、肥大化することへの危惧もあって、三田氏を討伐するための口実を待っていたようでもある。 一方、巨臣柏山氏の勢力を削ぐために三田氏を重用し、柏山氏の内部攪乱を図った太守葛西晴信の謀略のにおいも消し難い。
 かくして三田氏は滅亡の憂き目となったが、実際のところ、その時期に関する明確な記録があるわけではない。義広には数人の男子があったようで、義広とともに子供たちも自害、あるいは討死した。そのとき、三男の久三郎だけは葛西大守に仕えていたため、一命をとりとめた。久三郎は将監義勝とも称し、一族滅亡後、和賀氏家中の鬼柳氏を頼り、天正十八年の奥州仕置で葛西氏・柏山氏、和賀氏らが没落したのちは南部家に仕えたという。・2006年07月19日

参考資料:前沢町史(中巻)/岩手県史/江刺市史 ほか】


■参考略系図
・高盈以前については不詳。家紋から推して、三田氏の出自は嵯峨源氏渡辺党とも思われるが、その確証はない。
 


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