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蒲池氏
三つ巴/下り藤*
(藤原北家宇都宮氏流)
*上蒲池氏の家紋。

 宇都宮姓で、朝綱の弟久慈(久則)が、応永年間に筑後鹿待郷蒲池に居住して、蒲池氏を称したとも、公綱の弟泰綱の後裔ともいう。代々筑後守護大友氏に属し、山下城を本拠とし高一揆衆といわれる筑後武士団のうち、二十四城持大名の旗頭であった。
 『肥陽軍記』には、「筑後国蒲池氏は、宇都宮弥三郎朝綱の末葉である。久則(久憲)という人物が筑後国に下向して、蒲池の家を興し、鎮漣まで八代、下筑後七千丁を領し、国中に諸侍多く、家は富み栄え弓箭の名を落とすことがない」と記されている。
 南北朝末期・室町時代の九州北部は、肥前の少弐氏、豊後の大友氏、そして中国地方の大内氏が、博多の争奪をめぐり筑前国で熾烈な戦いを繰り広げていた。しかし、筑後国には大勢力がなかったため、蒲池氏は養子縁組などを通じて蒲池の門葉を広め、近隣に勢力を扶植していった。
 久憲の子供の則房は城島氏を継ぎ、久憲の嫡男の義久からは、その子の久種が酒見氏を、大隈が今村氏を興し、久種の兄の家久の子の家種からは犬塚氏が、弟の家虎の子の家種からは西牟田氏が生まれ、さらに義久の孫の親久の子で治久の弟の親則が安武氏を称すなど、多くの蒲池氏諸流が生まれ、蒲池氏を宗家とする蒲池一族が形成されて、蒲池嫡流の筑後守治久の頃になると、それまでの蒲池から柳川へ移り、筑後の筆頭大名としての地位を確実なものとした。
 蒲池氏は、久憲の代から筑後守護の大友氏の傘下に入っていた。大友氏は早くから筑後の支配経営に着手しており、筑後最大の外様大名の蒲池氏に対しては、代々偏諱を与え、朝廷の官位も「守」「輔」の高官の補任手続をとるなど様々な懐柔策でのぞんでいた。大友氏は、筑後国内の直参衆の国人諸氏を「高一揆衆」として地頭の役割をさせると共に、蒲池氏を旗頭とする大名分に対峙させ、牽制させていた。

戦国時代の蒲池氏

 蒲池氏は治久の子・鑑久の代になると強大な勢力となり、その力を警戒した大友氏は、蒲池氏の分散を図り、治久の次男の親広を上妻郡山下に大名分として別家を立てさせた。こうして蒲池氏は、柳川の蒲池鑑久、鑑盛の嫡流と、上妻郡山下の蒲池親広、鑑広の庶流に分かれ、蒲池嫡流を「下蒲池」、山下の庶流を「上蒲池」として区別した。ちなみに、嫡流の下蒲池が十万石、庶流の上蒲池が八万石を領し、合わせると十八万石となり、当時、蒲池家の勢力がいかに強大なものであったかがうかがわれる。
 筑後国は、応永六年(1399)以来、大友氏が守護職にあり、蒲池氏はその傘下に属して筑後二十四城の筆頭の城持ち大名として遇されていた。
 戦国時代後期、少弐、大内の両氏が衰弱し、大友義鎮(宗麟)が九州北部六ヶ国の守護となり、大友氏は全盛期を迎えた。この頃、九州南部で勢力を拡大していた島津氏が北上作戦をとったことから、大友氏と島津氏は直接対立するに至った。天正六年(1578)、ついに日向国の高城川において、両氏の間で雌雄を結する戦いが行なわれた。世にいう「耳川の合戦」である。この合戦にのぞんで、大友軍は五万、対する島津軍もまた四万の兵を擁し、蒲池氏も鑑盛が大友軍の主翼の一を担って出陣した。
 大友軍は、田原紹忍を総大将として高城川に布陣し、蒲池鑑盛(宗雪)は、吉弘鎮信、斎藤鎮実らと共に先陣をつとめた。ところが、大友氏先陣の指揮官の佐伯惟教と田北鎮周との間に作戦の不一致があり、指揮系統に混乱が生じ、それに加えて島津氏得意の「釣り野伏せ戦法」によって、戦いは大友氏の大敗北となった。大友氏の重臣佐伯惟教、田北鎮周が討死するなど大友軍総崩れの中で、蒲池宗雪は、子の統安(鎮安)と共に勇猛果敢に戦ったが、劣勢を挽回するには至らず壮烈な討死を遂げた。
 蒲池鑑盛は、武蔵守、入道して宗雪と号した。鑑盛は柳河城を築き、瀬高より柳河に至る道を改修し、治水対策にも力を入れるなど、民政に意を注いでいる。また、天文二十年(1551)、龍造寺家兼の曾孫で龍造寺家を継いだ隆信が、少弐氏に佐嘉城を追われたとき、鑑盛は隆信等を領内にかくまった。このとき、反大友の立場である隆信を討つことは何でもなかったであろうが、武士の戦は戦場にてという信条を持つ鑑盛は、卑怯な振る舞いを嫌い、失意の中にある隆信を励まし、物心両面より援助を惜しまなかったという名将であった。
・柳川城祉の石垣

その後の蒲池氏

 鑑盛の跡を継いだ嫡男の鎮漣(鎮並)は、大友氏からの独立を図るが、鎮漣は家中統制力の弱さを露呈し、蒲池氏は分裂状況に陥ることになる。蒲池鎮漣は、同じく大友氏から独立して勢力を拡大しつつあった龍造寺隆信の傘下に入るが、龍造寺氏の幕下に立つつもりはなかったと思われる。つまり、鎮漣には独立した戦国大名への志向があったのであろう。その後竜造寺氏の筑後計略を案内し、上蒲池家を攻めて降伏させた。しかし、竜造寺氏の上蒲池家への降伏条件を不満とし、島津氏と通じ竜造寺氏の軍と戦った。その後、竜造寺の謀略によって、下蒲池鎮漣は一族とともに滅ぼされた。
 一方、上蒲池氏は、鑑広・鎮運父子は竜造寺氏に従い、さらに豊臣秀吉の九州征伐には、立花道雪に属し、山下郡のうち二百町を与えられた。鎮運の後を継いだ鎮行は、関ヶ原の合戦で西軍に属して没落、子孫や一族は黒田藩や立花藩などの家臣、あるいは同族関係の他氏の養子となるなどして血脈を残した。また、柳川の蒲池嫡流も鎮漣と一族の死滅後も、いくつかの系統が子孫を後世に伝えたという。

●写真は 筑後柳川城さまのサイトから転載させていただきました。


■参考略系図

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