懸田氏は奥州の戦国時代、伊達郡霊山の懸田城に割拠した有力国人領主であった。 その出自には諸説があり『懸田史』によれば「懸田氏は源義家公の六男、陸奥六郎源義隆より出ず、十四世の後裔を高松近江守定隆と為す、定隆正中二年(1325)四月を以て、杉野目郷高松城に止住し、高松と称す。建武二年(1335)北畠顕家の命で高松城から懸田城へ移り、懸田氏を称した」と記されている。懸田氏は南朝方として活躍し、懸田城は霊山城や藤田城と共に南朝方の拠点となったのである。 一方『伊達正統世次考』には「懸田はもと大江氏なり。懸田常陸介大江定義、嗣子無し。葦名遠江守平盛泰の五男泰義を養いて以て嗣となす」とある。ちなみに、戦国大名葛西氏の家中に掛田氏がいた。掛田氏は葦名氏に仕えていたが、故あって葦名氏のもとを去り、葛西氏に仕えるようになったという。そして、掛田氏は大江姓を称しているのである。『伊達正統世次考』の記述が、にわかに信憑性を帯びてくるのである。 清和源氏あるいは大江氏、いずれが懸田氏の出自なのかは、今後、解明される日がくることであろう。 懸田氏の発展 懸田氏の名が史料にあらわれるのは、応永七年(1400)のことで、懸田大蔵大輔宗顕が、岩城菊田庄の藤井氏と一揆契状を結んだものである。ついで、応永二十二年、懸田播磨守定勝入道(玄昌)が伊達持宗とともに大仏城によって鎌倉府に反旗を翻している。『鎌倉管領九代記』には、懸田入道が伊達・懸田連合軍の采配を振るったと記している。さきの大蔵大輔宗顕と定勝は同時代の人物であり、一族の関係にあったようだ。『懸田史』の記述から、定勝は定隆の孫にあたる人物であったことが分かる。おそらく、懸田氏一族の惣領であったのだろう。 正長元年(1428)、懸田氏は宇多庄をめぐって相馬氏と結んで結城白川氏と対立し、伊達持宗の調停によって和睦しているが、その後も対立関係にあったようで、永享二年(1430)幕府内で「懸田退治」が議されている。その後、懸田氏は幕府に服属したようで、永享十年の「永享の乱」には伊達氏らとともに、懸田播磨入道が将軍足利義政から御内書を下され、寛正元年(1460)には懸田次郎が義政から内書を下されている。十五世紀はじめにおいて、懸田氏は南奥州の有力国人として幕府から認識されていたことが知られる。 永享十年の懸田播磨入道は詮宗と思われ、定勝の子であろう。そして、詮宗の「宗」の一字は伊達持宗からもらったものと思われる。寛正元年の懸田次郎は、持宗の庶長子で詮宗の養子となった義宗であろうとみられる。これらのことから、懸田氏が伊達氏に従属するようになったことがうかがわれる。 伊達氏天文の乱 義宗のあとは元宗がつぎ、元宗のあとは俊宗が継いだ。俊宗の時代になると、日本全国が戦国時代であり、奥州の地も諸勢力が割拠して合戦が繰り返された。戦国時代における南奥の強豪は伊達氏、葦名氏らであった。懸田氏は伊達氏に属し、俊宗は稙宗の娘を室に迎えて一定の勢力を保持していた。 ところが、天文二年(1542)六月、稙宗の嫡子晴宗が鷹狩を終えた帰りの道で稙宗を捕らえ、伊達郡桑折西山城に幽閉した。いわゆる「伊達氏天文の大乱(洞の乱)」の勃発であった。「稙宗捕わる」の報を受けた懸田俊宗は同じ稙宗の女婿である相馬顕胤とともに稙宗を救助するためただちに出動、稙宗は家臣小梁川宗朝が城内に潜入して密かに救出した。 乱の原因は、伊達稙宗が三男の実元を越後守護上杉定実のもとに入嗣させようとしたことをきっかけとして、稙宗の専制を嫌っていた重臣の桑折景長と中野宗時らが晴宗を煽動したことにあったといわれる。 稙宗救出後、伊達家中の争いは激化、稙宗方には懸田俊宗・相馬顕胤の他、蘆名盛氏、二階堂輝行、田村隆顕ら稙宗の娘婿の大名や実子の大崎義宣、葛西晴胤(晴清?)らが加担し、一方晴宗方には有力な伊達家臣の他、義父の岩城重隆がつき、奥州の大名諸家を巻き込む大乱へと発展した。 六年余に渡って戦われた乱は、実質的には稙宗方の敗北となった。稙宗は伊具郡丸森城に隠退し、晴宗が家督を相続したのである。その際、講和の条件として懸田城は破却された。これに不満を持った俊宗は、同二十二年ふたたび晴宗に背き挙兵するが敗れ、懸田氏は滅亡した。 俊宗には義宗と晴親の男子があったが、義宗は斬られ晴親は相馬に逃れた。晴親は相馬氏一族の黒木氏の婿となり黒木を称し、のちに伊達氏に仕えたことが知られている。 【参考資料:・懸田町史・福島県史 など】 ■参考略系図 ・懸田氏の系図は『懸田家略譜』によれば、「懸田姓藤原不詳其出自也(中略)播磨守定勝入道玄昌以前家系不伝」とあり、これによれば藤原姓ということになる。 |