江戸時代中期以降に書かれた『里見代々記』等の軍談書によると、里見家基は、関東公方足利持氏に仕え、嘉吉元年(1441)の結城合戦には、持氏の遺児安王・春王を奉じた結城氏朝に与して篭城したが、結城落城の際、嫡子義実をはじめ子供たちを城外へ逃し、自分は止まって討死した。 このとき、義実と二男家氏は安房に逃れ、義実は安房里見氏の祖となった。一方、三男の又三郎は父の領地であった上総国里見邑に逃れ、上総守護大名の千葉介胤直に仕えた。そして、上総国海保庄に三万貫を領し、初めて海保内匠のちに大隅守氏義を称した。すなわち、これが海保氏の始まりである。以後、代々が千葉氏に仕えて重用された。 海保氏の足跡 海保氏が海保庄に居住したのは、三代氏俊までで、四代泰氏からは下総国佐倉山城に移った。泰氏の嫡子信氏は、千葉介勝胤・昌胤に仕え執権職を務めた。その子勝氏は千葉介利胤・親胤の執権、氏之は成田寺台城主で千葉介富胤の執権職であった。 英氏のとき、豊臣秀吉の小田原城攻めがあり、北条氏が秀吉に降り、千葉氏も改易の憂き目にあうと、英氏の子氏次は徳川家に仕えた。しかし、のちに故あり改易となり海保氏宗家は断絶した。 小田原落城のとき、上総国武射郡に郷士として土着した海保氏。あるいは、成田周辺に開拓草分農家として土着した海保氏などがいた。 このほか、海保氏には安中藩海保氏、その分家で水戸藩に仕えた海保氏があった。また、尾張藩に仕えた海保氏もいた。尾張藩に仕えた海保次郎左衛門家はのちに里見氏に改めている。 海保氏の家紋は、里見氏の分かれということを考えれば二つ引両であったと思われる、しかし、実際のところは、下総国久住海保氏が九曜紋、同宝田海保氏が六曜紋を使用し、上総国屋形海保氏は抱茗荷・巴紋、同鳴浜海保氏が桔梗紋、同椎津海保氏は柏紋を使用している。また、安中藩・水戸藩に仕えた海保氏は桔梗紋、尾張藩に仕えた海保氏は巴紋を使用していたと伝える。 【参考資料:海保 敬氏の論文を参考】 ■参考略系図 |