高田氏は清和源氏といい、甘楽郡妙義山の東を流れる高田川の南に高田城を築き、関東の戦国時代を生き抜いた。高田氏の系図は『尊卑分脈』『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』などがあり、いずれもほぼ同じ内容である。すなわち、高田氏は以仁王を奉じて宇治川で討死した源頼政の曾孫太郎盛員を祖にしている。 盛員は美濃に住していたが、甘楽郡菅野荘高野郷に移り住んで高田を称した。『吾妻鏡』の建久元年(1190)、頼朝が上洛したときの随兵のなかに高田太郎がみえる。この太郎は盛員であり、関東御家人の一人であった。頼朝の死後、執権北条氏と有力御家人との対立が生じ、北条氏の策謀の前に梶原氏、比企氏らが滅亡していった。 建保元年(1213)、和田義盛が北条義時排斥の兵を挙げた。この挙兵に高田氏一族は和田氏に加担したが、和田方の敗北で勢力を後退させる結果となった。とはいえ、その後も所領は保ったようで、仁治二年(1240)に境をめぐって長秀連と争って敗れ、所領の一部を削られている。 関東の動乱 幕末の動乱期から南北朝時代になると高田又次郎の名が『太平記』にあらわれる。又次郎は新田義貞に属して、倒幕に活躍、義貞麾下十六勇士の一人に数えられている。建武元年(1331)、後醍醐天皇親政で発足した建武政権は、関東に下った足利尊氏の謀反で動揺した。新田義貞を大将とする尊氏討伐軍が発せられると、高田薩摩守が加わり箱根竹下合戦で戦った。以後、高田氏は南朝方として行動したようだ。 明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、室町幕府体制が確立されていった。関東では鎌倉府が機構を整え、尊氏の二男基氏の子孫が公方に任じ、それを管領上杉氏が補佐する体制がなった。しかし、鎌倉公方は幕府と対立するようになり、それが関東に戦乱が繰り返される要因となった。高田氏ら上野の武士はそれぞれ「一揆」を結び、管領上杉氏に属して関東の戦乱に参加した。高田氏は上州一揆に属し、永享十二年(1440)の結城合戦には高田越前守が上杉氏に属して結城城攻めに功を挙げている。 結城合戦によって鎌倉公方家が没落すると、管領上杉氏が関東の政治を行った。しかし、上杉氏の台頭を喜ばない武士たちは鎌倉府の再興を望み、やがて、足利成氏が新公方となり鎌倉府が再出発した。しかし、成氏は管領上杉氏と対立、享徳の乱を起こした。以後、公方方と管領方との戦いが繰り返され、関東は確実に戦国時代Hうぇと推移していった。さらに、長尾景春の乱、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立である長享の乱が起り、関東は泥沼の戦乱状態が続いた。 乱世は公方、管領など伝統勢力の衰退をよび、国人と称される在地領主の自立を促した。そして、掘越公方を滅ぼした伊勢新九郎(北条早雲)が、新興勢力として関東に進出してきた。北条氏は古河公方の内部抗争、両上杉氏の抗争を後目に着々と勢力を拡大、大永四年(1520)には扇谷上杉氏を逐って江戸城を支配下においた。 上杉氏の衰退 享禄四年(1531)、上杉憲寛を逐ってわずか八歳の上杉憲政が山内上杉氏の家督となった。憲寛は古河公方家から養子に入った人物で、憲房が家督となった背景には家臣団の対立があったようだ。一説に、上杉氏の重鎮である白井長尾氏と箕輪長野氏、対する高田氏・小幡氏らの派閥争いがあったという。いずれにしても、山内上杉氏は新当主を擁して北条氏の勢力拡大に対峙したのであった。 天文六年(1537)、北条氏綱は扇谷上杉氏の支配下にあった河越城を攻略、確実に武蔵国を蚕食していった。時間は前後するが天文二年、氏綱は鶴岡八幡宮再建のため、快元僧都をして関東諸将軍に奉加を求めた。氏綱のこの企図は諸将の動向打診が大きな目的であり、それを見抜いたのであろうか長野業政、白井長尾憲景らは応じていない。一方、高田伊豆守(遠春)は奉加に応じたことが『快元僧都記』から知られる。 やがて成長した憲政は北条氏の台頭を危惧し、天文十五年(1546年)、扇谷上杉・古河公方を語らって八万余の大軍を動員、北条綱成が守る河越城を攻撃した。結果は大軍を擁した連合軍が、北条氏康の夜襲によって散々な敗北を喫したのである。この河越合戦によって、北条氏康は一躍関東の太守と呼ばれるようになった。 敗れたとはいえ憲政は平井城に拠って北条氏との対立姿勢を保った。ところが翌十六年、武田信玄の攻撃にさらされる信濃佐久郡の志賀城を支援するという行動に出た。このとき、志賀城主笠原新三郎清繁と親戚関係にある高田遠春父子が援軍として城にたて籠った。しかし、志賀城は武田軍の猛攻の前に陥落、城兵三百余人が討ち取られ、高田父子も奮戦のすえに戦死した。この合戦において上杉の援軍を打ち破った信玄は、そのとき挙げた首級三千を志賀城の廻りに立て並べた。これを見た城兵の気勢は削がれ、ついに信玄に攻め落とされたという。さらに信玄は、城内で生け捕った女や子供を甲府に送ると競売にかけたと伝える。 憲政の佐久出陣を聞いた長野業政は、信玄をも敵にまわすことになる無益な出兵であるとして反対した。そして、業政が危惧したように、信玄の上野侵攻が開始されることになる。一方の憲政にしてみれば、信濃が信玄の支配下に入ると、つぎは上野国が侵攻を受けることになると思われ、援軍を出したものであろう。上杉方が敗れたこともあって、高田氏が憲政をそそのかして愚挙を行わせたという説がある。それは見方の相違といえるが、敗戦後の足下を固めるべきときに、信濃に出兵した憲政は武将としての力量に欠けるところがあったと評されても仕方がないといえよう。 戦国乱世を生き抜く その後、憲政麾下の諸将は次々と北条方に走り、天文二十一年、憲政は長尾景虎(のち上杉謙信)を頼って越後に逃れ去った。かくして、上野は北条氏の勢力が浸透、さらに西上野には武田氏の勢力が伸張してきた。永禄三年(1560)、上杉憲政を擁した景虎が関東に出兵してきた。このとき景虎が作成した『関東幕注文』には、箕輪衆「高田小次郎 にほひ中黒」と記され、高田憲頼は景虎の陣に参じたことが知られる。 謙信の関東進出に対して北条氏康は武田信玄と結んで対抗、以後、上野を舞台に三者の抗争が展開された。高田憲頼は信玄の西上野侵攻に抵抗したが、永禄四年、ついに信玄の軍門に降った。そして、永禄九年に信玄麾下の諸将が『生島足島神社』に捧げた起請文の中に、高田大和守繁頼の物がある。繁頼は憲頼が改名したものであろう。かくして、高田氏は信玄に属して各地を転戦、憲頼の子は信玄の一字をもらって信頼と名乗った。 高田氏父子は、元亀三年(1572)の信玄上洛戦にも従軍、三方ケ原の戦いに活躍した。ところが、信玄は天正元年(1573)に病死、勝頼が武田氏の当主となった。同年、三方ケ原の戦いで戦傷を負った繁頼もそれが原因で死去した。信頼が高田氏の家督となったが、天正三年、長篠の合戦において武田軍は織田・徳川連合軍に惨敗、多くの将兵を失った。かくして、武田氏の威勢にも翳りがみえるようになり、天正十年、織田軍の侵攻を受けた勝頼は天目山で自刃、武田氏は滅亡した。 武田氏の滅亡により上野は北条氏の支配するところとなり、高田氏も北条氏に従うようになった。信頼の子直政は北条氏直の一字を拝領したものである。ところが、北条氏も天正十八年、豊臣秀吉の小田原征伐によって没落、関東の戦国時代は終焉を迎えた。北条氏に味方した高田直政は高田城を離れ信濃塩田村に移住、鎌倉以来、高田を支配した在地領主高田氏の歴史は幕を閉じた。その後、徳川家康に召し出された直政は、慶長五年(1600)の上田城攻めに加わり、大坂両度の陣にも従い功があった。かくして、高田氏は徳川旗本として近世を生きることになった。・2007年04月24日 【参考資料:妙義町史/日本城郭体系 ほか】 ■参考略系図 ・尊卑分脈・寛政重修諸家譜から作成。 |