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上泉(大胡)氏
酢漿草
(藤原秀郷流足利氏族)


 藤原氏秀郷流足利氏の支族。淵名兼行の孫・重俊が上野国赤城山南面の勢多郡大胡に城を築き、大胡氏を称した。平治の乱に際し、大胡某は源義朝配下の軍勢に加わっていることが『平家物語』に見える。源平争乱期には、大胡氏は当初平家方につき、治承四年五月の宇治橋合戦で、大胡氏は源頼政を攻める平家方の足利忠綱に従っていた。のち源氏に従い、源頼朝のもとに大胡太郎も馳せ参じたという。
 元暦元年九月、平家追討のため西国に、向かった源範頼配下の侍大将のなかに大胡三郎実秀がいた。平家滅亡後、鎌倉初期には鎌倉御家人として活動。文治五年七月の奥州征伐には北陸道方面軍に、大胡・佐貫氏ら上野国の住人が加わることが定められたことが知られる。
 『法然上人絵伝』によれば、上野国御家人大胡小四郎隆義は在京中に法然に教化され、念仏を深く信仰したという。彼の子太郎実秀も念仏を行い、寛元四年に往生するまで念仏に励んだと伝える。また実秀の孫と思われる小四郎秀村も念仏に励んでいる。
 大胡氏の惣領家は南北朝期から室町期にかけて滅亡したが、その一族は上野国に存続した。その後の「上杉家文書」「鹿島神宮文書」さらに「太平記」などに大胡氏が散見することからもそれが裏付けられている。

戦国武将、秀綱の活躍

 戦国期には、関東管領上杉氏の配下として活躍したことが知られる。天文十五年武田氏を攻めるために碓氷峠に出陣した上杉憲政軍に大胡氏が加わった。同二十年春、北条氏康が平井城を攻めた際、神流川で迎え撃った上杉軍のなかに大胡氏がいた。その後、北条氏の圧迫に押されて上杉憲政が越後に脱出したあとは、上杉景虎の配下に入っている。
 大胡氏の一族である上泉氏は、室町期から戦国期まで上野国大胡城主として、大胡氏を名乗り、関東管領山内上杉氏に従っていた。天文二十年(1551)管領上杉憲政が北条氏康に攻められて越後に敗走し、同二十四年、小田原北条氏の配下猪股則直の攻撃を受けた大胡武蔵守秀綱(信綱)は大胡城をよく守ったが、かなわず降伏した。
 降伏後、上泉の地に隠棲していた秀綱は、憲政から管領職と上杉の名跡を譲られた上杉景虎に通じて、上杉軍の上野出陣を支援し、北条軍を打ち破って大胡城を奪還した。当時、知謀豪勇をもって鳴った上野国箕輪城主長野信濃守業正は、景虎の命によって上州南部の諸城を制圧して北条軍を駆逐し、秀綱もまた、景虎軍の先鋒となって武功をあらわした。
 この間の秀綱の軍功として名高いのは、長野業正の安中城攻略に従って一番槍をつけ、「上野国一本槍」の名声を挙げたことである。長野氏の麾下には武勇に秀でたものが多く、秀綱を加えて「長野十六本の槍」という呼称が後世に伝えられた。業正顕在の間は上野も平静を保ったが、永禄四年(1561)、かれが病死し、嫡子右京進業盛が箕輪城主となるや、その平静が破られることになる。
 永禄六年正月、甲斐の武田信玄が一万の大軍をもって箕輪城攻略を開始したのである。その結果、業盛は十九歳の若さで自刃し、上野の名家長野氏は滅亡した。このとき、秀綱も奮戦したが、業盛自刃を知ると武田軍の重囲を破って脱出し、一時桐生の地に隠れた。その後、箕輪城代となった武田家臣内藤修理の厚意によって箕輪に帰り、長野氏の旧臣二百騎とともに武田軍に編入された。

新陰流を興す

 信玄はつとに秀綱の非凡なる才能を見抜き、重臣として起用することを望んだが、秀綱はそれを固辞して、永禄六年の晩春、武田信玄のもとを去って武者修行者として諸国巡歴の旅に出るのである。ここに秀綱の戦国武将としての活躍は終わりを告げ、かねて修行を積んでいた兵法武芸の弘布伝授の生活が始まるのである。秀綱は京洛を目指し、途中、伊勢から大和に歩を進め、大和では宝蔵院胤栄を訪ねた。そのとき、柳生石舟斎宗巌も馳せ参じ、胤栄と宗巌はともに秀綱の新影流を修行した。
 以来、秀綱は柳生家の客となって柳生の地に滞在し、入洛も数回に及んでいる。そして、永禄七年二月に、嫡男秀胤が北条氏康の麾下にあって里見軍と下総国府台に戦い討死したという悲報を受けた。嫡男陣没の悲報に接し、秀綱は傷心を抱いて柳生を後に入京した。そして、将軍足利義輝に軍配兵法を講じ、新影流剣法をも上覧に供し、当時において「兵法新影流軍法軍配天下第一」と称されたといわれている。
 その後、信綱は京都に滞在し、その間、大納言山科言継らとの交遊が知られている。やがて、かれは上泉の地に帰り、天正五年には嫡男秀胤の十三回忌の法要を行い、上泉の地に菩提のための西林寺を開基したという。信綱はすでに七十歳であったと伝えられ、間もなく上泉の地に病没した。
 上泉氏の血統は、信綱の長男秀胤および次男憲元の両系統が会津上杉藩(のちに米沢藩)に禄仕し、一刀流ほか玉心流総合武術を伝承し、養子秀胤の系統は尾張藩・岡山藩に永く存続した。
 永禄四年成立とみられる『関東幕注文』には、「大胡 かたはミに千鳥すそこ」「上泉 かたはミ千鳥」とみえ、大胡氏・上泉氏が酢漿草紋を用いていたことが知られる。
 また、大胡一族のなかには、武蔵国牛込に移住して牛込氏を称した者もいる。大胡太郎の子孫宮内少輔重行は上杉朝興に属し、のちに北条氏の招きにより大胡を去り、牛込に住し、のちに牛込氏を称したという。子孫は、徳川氏旗本となっている。



■参考略系図


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