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伊豆清水氏
藤の丸
(藤原姓)


 戦国時代、小田原北条氏に仕えた清水氏があった。「足利基氏伝状」などから、南伊豆の土豪出身という説もあるが、北条早雲に従って伊豆に入国したものであろう。南伊豆の神社の棟札などによると本姓藤原氏を称している。
 早雲に従って伊豆に入ったのは、清水上野介康英の祖父にあたる人物で、実名を知る史料はないが、おそらく盛吉、吉■といったであろうと推察される。惣領家の当主は代々、北条宗家の偏諱を与えられ、官途名は太郎左衛門尉、受領名は上野介を称した。本拠は、伊豆国加茂郡加納村の加納城で、伊豆郡代の笠原氏とともに伊豆奥郡代・三島社奉行を務め、小田原北条氏の伊豆支配の代行者であった。
 二代目は、享禄五年(1532)笠原綱信と連署している清水綱吉で、大永三年(1523)七月の伊豆在庁文書の判物がその史料上の初見である。天文十年代には没している。

伊豆衆筆頭に出世

 三代目が評定衆を務め、後北条氏家中に重きをなした清水康英である。永禄二年(1559)の『小田原役帳』によると、伊豆衆として清水太郎左衛門・清水小太郎、馬廻衆に清水弥左衛門・清水与三左衛門が見える。康英は上野介を称し、伊豆衆のなかでは最も多い八百四十七貫四十文の知行役高を有しえいた。そして、その所領の一部を弟の清水淡路守ら一族・被官に宛行い、さらに雲見の高橋、子浦の八木、妻良の村田、湯ケ野の西川、大沢の小針の諸氏や、分家にあたる河津の清水氏など、伊豆在地の小領主らを寄子・同心などに組織していた。
 天正七年には韮山城の城将、同十八年、豊臣秀吉の来攻に際しては下田城主を務めた。下田城の攻防戦は五十余日に及ぶ籠城の末、開城となり、康英は河津林際寺に退去。のち清水能登守の菩提寺である筏場の三養院に隠棲し、翌十九年六月に没した。
 康英の嫡子新七郎は、永禄十二年十二月の蒲原城の戦いで、北条氏信らと討死したため、二子の政勝が嫡子となった。政勝は天正九年(1581)ごろには、駿豆国境の長久保城主、同十五年には上野金山城主を務めている。やがて、豊臣秀吉と小田原北条氏の関係が緊迫化してくると、北条氏は韮山城や山中城の修築を行うと同時に、伊豆半島のほぼ先端に位置する下田に海の備えとして下田城を築いた。そして、城将には伊豆衆を率いる清水太郎左衛門が配されたのであった。
 かくして、天正十八年(1580)、豊臣秀吉による小田原の陣が起った。秀吉軍の攻撃に松田康長の守る山中城、北条氏規が守る韮山城がつぎつぎと落城したが、下田城は豊臣水軍の長宗我部・脇坂・安国寺・九鬼の諸将の攻撃をよく防戦した。しかし、籠城五十日余り、ついに降伏、開城となった。その後、太郎左衛門は河津三養院に退去し、翌十九年に死去したという。

清水氏のその後

 秀吉の小田原来攻に際して、政勝は小田原城に籠城した。そして、北条氏没落ののちは、下総結城の結城秀康に仕え、のちに意笑入道正花と号した。
 関ヶ原の戦ののち秀康の越前転封に従って、越前国に移り、知行千二十五石余を与えられている。その子らは、秀康没後の越前家中の騒動により結城松平家を辞し、嫡家はのちに越後高田の松平光長に仕えた。
 清水氏の後裔に、駿河国駿東郡沼津宿の本陣を務めた家がある。屋号は十四軒屋といい、代々助右衛門を襲名した。康英の子政勝の系というが、同家の伝承には、康英とともに下田城に籠城した清水小太郎が見え、小太郎は北条氏没落ののち、伊豆国賀茂郡河津荘に住み、文禄二年(1593)に沼津に移り住んだという。
 ところで、劇画家平田弘史氏の「怪力の母」は、清水康英の妻を主人公にした佳作で、平田氏らしい雄渾な筆致と独自の歴史観で、戦国時代の女性の生きざまが活写されている。発信者も平田氏のファンで、愛読書の一冊となっている。

参考資料:静岡県姓氏歴史人物大辞典 ほか】


■参考略系図
 


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