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岩櫃斎藤氏
六つ葉柏
(藤原北家秀郷流)


 戦国時代、上野国吾妻郡太田庄に岩櫃城があり、斎藤氏六代が割拠していた。岩櫃城は室町時代中期に、長尾忠房が築城したもので、以後、何度かの改修が加えられて、群馬県下における最大の城となった。
 伝承によれば、そもそも岩櫃に初めて城を築いたのは吾妻氏であるという。吾妻氏は承久の乱(1221)に助光が戦死したことで断絶、そのあとは一族の下河辺氏から行家が入って名跡を継いだ。鎌倉時代末期ごろ吾妻太郎行盛が出て、勢力を振ったが里見氏との戦いに敗れて吾妻氏は没落した。
 行盛が戦死したとき、嫡子の千王丸が遺され、千王丸は伯父の斎藤梢基の養子となり父の仇を討ったのちに岩櫃城主となった。以後、憲行の子孫が代々城主となり、六代を経た永禄六年(1563)基国の代に武田信玄によって滅ぼされた。これが、郡内に伝わる旧記による岩櫃城主斎藤氏の歴史である。しかし、『吾妻郡城塁史』はこれに疑問を呈し、『加沢記』及び『斎藤氏系図』の記述がより真実に近いとしている。

岩櫃城主、斎藤氏乱

 岩櫃城主斎藤氏は系図によれば、藤原秀郷流で秀郷四代の孫助宗が初めて斎藤氏を称し、その後、十五代を経て基国に至った。基国は南北朝時代の人物で斎藤越前守を称して越前国に住していた。この基国の嫡子が憲行で斎藤太郎を称し、応永十二年(1405)に岩櫃城に入城した。吾妻氏流の憲行と同姓同名だが全く別の人物である。
 斎藤氏系図の初期の部分は、「尊父分脈」と比較しても不自然な部分が多く、記述をそのままに受取ることは危険なものである。さらに、碓氷斎藤氏と関係を持つ吾妻憲行と越前から岩櫃に来て城主となった斎藤太郎憲行との関係も一切不明である。碓氷斎藤氏の血をひく吾妻憲行のあとを越前斎藤太郎憲行が継承したとも考えられるが、それも傍証のあるものではなく、結論的には吾妻憲行は忽然と消え、越前斎藤太郎憲行が忽然と現れて岩櫃城主となったとしか言いようがないのである。
 応永二十三年(1416)、「上杉禅秀の乱」が起った。このとき、関東公方持氏は上杉憲基の邸に逃れたが、そのとき、上杉氏の供奉人の小幡・倉賀野・沼田ら上野勢のなかに吾妻の名がみえる。この吾妻はおそらく岩櫃城主の斎藤太郎憲行であろうと思われる。
 斎藤太郎憲行には系図上で六人の男子があり、岩櫃城に入城すると嫡子を岩櫃城におき、次男幸憲を中山城に、三男威実を新巻に、四男基政を山田に、五男憲基を稲荷城に、六男幸連を岩下城にそれぞれ配した。そして、吾妻氏の子孫は川戸内出城に移して、あるかなきかのごとき存在に置いたと伝えている。

鎌原氏との抗争

 永享の乱の前後より斎藤氏一族の大野氏が宗家を凌ぐ勢いをみせ、嫡流憲実も大野氏の配下となるに至った。大野義衡のとき吾妻郡を支配下において新田由良氏に属して勢力を拡大、岩櫃城に入城した。義衡には三人の男子があり、長男は憲賢といい岩櫃城主となった。憲賢のあとは太郎憲直が継ぎ、大野氏は岩櫃城主として斎藤一門の中心として勢力を誇った。
 ところが、植栗河内守と大野氏との間に対立が生じ、大野氏は重臣の斎藤憲次に植栗氏の討伐を命じた。憲次は河内守と共謀して植栗を攻めるように見せかけて、逆に岩櫃城を包囲し、大野一門はことごとく滅亡した。かくして、憲次は岩下城から岩櫃城に移り、一郡を統治して平井城の管領山内上杉氏に属するにいたった。
 憲次は越前守を称し、男子太郎が憲次のあとをついで憲広と称した。この憲広が『関東幕注文』にみえる斎藤越前守その人である。憲広は管領山内上杉憲政に属していたが、後北条氏との抗争で憲政が越後の長尾景虎を頼って関東から退去すると、周辺諸豪族と戦って所領の拡大につとめるようになった。それが原因となって沼田氏と不和になり、さらに、三原庄の鎌原氏と争うようになった。
 鎌原氏はひとりで斎藤氏にあたる不利をさとって、武田信玄に好を通じて斎藤氏に対抗しようとした。鎌原が武田信玄に通じたことを知った憲広は驚いて、白井長尾氏を通じて越後の上杉謙信の麾下となり、その援助によって信玄に対抗しようとしたのである。ここにいたって、斎藤氏と鎌原氏の抗争は武田氏と上杉氏の抗争へと変化していった。

斎藤氏の没落

 永禄六年(1563)、信玄は真田幸隆を大将として三千騎の兵をもって岩櫃城攻撃を決意した。合戦は双方ともに有利に展開せず、力攻めの不利をさとった真田幸隆は和議を進め憲広も受け入れたため、一応、戦いは終熄した。その間、幸隆は岩櫃城内に内応工作を施し、内応工作の効き目を実感した幸隆は岩櫃城攻撃を再開した。急をつかれた憲広は城を出て戦うことができず籠城策をとった。ところが、先の戦いとは違って今回は城内に内応者がいたことが斎藤氏にとって致命傷となった。
 城内は大混乱となり、憲広は自刃しようとしたところを嫡子太郎に止められて岩櫃城から落ちていった。その後、岩櫃城の奪回を試みたが、結局失敗に終わり斎藤氏は没落の運命となった。
 永禄八年の秋、斎藤憲広の嫡男憲宗は上杉謙信の加勢を得て、沼田城将の栗林政頼、白井長尾憲景、中山・尻高氏らの助力により嶽山城に入った。この情勢を岩櫃城でみていた真田幸隆は、一計を案じて、嶽山城に和睦を申し入れて互いに人質を交換した。そのとき、嶽山城の重臣である池田佐渡守を調略した。
 嶽山城から池田佐渡守が退出したことを確認した幸隆は、城攻めを開始した。両軍は城の西方にある成田原で戦ったが、重臣の佐渡守を失っている城方が敗勢となり、ついに城に引き揚げようとした。そこを真田勢に追い討ちをかけられ、ついに城主斎藤憲宗・弟虎城丸らは自害し、嶽山城も落城した。ここに、斎藤氏はまったく滅亡し、吾妻郡は武田氏の掌握するところとなったのである。・2007年05月29日

参考資料:吾妻郡城塁史 ほか】



■参考略系図  


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