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市橋氏
●三つ菱餅
●清和源氏石川氏流  
 


 市橋氏の出自に関しては諸説があるが、陸奥国石川郡から発した清和源氏頼親流石川氏の後裔とみられる。石川光義の子成田二郎光治は承久の変に功をたて、美濃国池田郡市橋庄の地頭職に補任された。そして、代官として市橋庄に下った弟の光重が、やがて市橋を称するようになったのが市橋氏の始めという。

出自を探る

 『美濃明細記』に収められた市橋氏系図を見ると光重の子成光は大友氏に仕え、南北朝の争乱時代の信久は美濃守護土岐氏に仕えたとある。男子がなかった信久は武田信春の子信直を養子として迎え、以後、市橋氏は土岐氏の被官として美濃に定着したようだ。
 ところで、戦国時代の市橋太郎長氏(利治)は、妻の甥にあたる六角堂執行池坊一族の専節という者を養子に迎えた。そして、市橋下総守長利は永正十年(1513)専節の子に生まれたとする説がある。一方、利治が養子に迎えたのは専順で、利尚と名乗った。そして、専順は寛正二年(1461)六角堂法橋と称したというものもある。しかし、専順養子説には無理があるようだ。池坊専順は挿花池坊流二十六代の当主で、また連歌の飯尾宗祇の師でもあった。さらに、挿花に関する『美巻伝』『衍巻伝』二冊を著し、『新撰玖玖波集』には百十一句が採られた連歌の名人であった。専順の没年は延徳元年(1489)と伝えられ、市橋下総守長利の父とするには無理がある。
 市橋氏が池坊氏から養子を迎えたとする説の真偽は不詳だが、池坊氏は西園寺家支流といわれ、これが市橋氏の出自を藤原氏につなげる要因となったことは疑いない。いずれにしても、戦国期の長利・長勝父子に至るまでの市橋氏の事歴については諸説があり、定め難いというのが実状だ。
 とはいえ、市橋氏の出自を探るヒントとして家紋がある。市橋氏は「三つ菱餅(割菱か)」「向い鶴」「柊に打豆」を使用しているが、「向い鶴」は奥州石川氏が用いており、「三つ菱餅」は養子として入った武田信直にちなむものではなかろうか。ちなみに、池坊氏は橘紋を用いていた。これらのことと中世武家における家紋のありかたから推して、市橋氏は清和源氏の流れを汲む家であることを意識していたとみて間違いないだろう。

大名に成長

 さて、戦国時代の当主長利は池田郡の青柳城に住し、のち安八郡福塚城に移った。代々、美濃守護土岐氏に仕えた市橋氏であったが、斎藤道三によって土岐氏が没落すると斎藤氏に仕えた。やがて、尾張の織田氏が勃興してくると、市橋氏は斎藤方として織田氏の美濃侵攻を防戦した。永禄三年(1560) 六月、織田信長が美濃に侵攻してきたときは丸毛氏らとともに迎撃した。しかし、情勢は斎藤氏の不利にかたむき、市橋長利は織田信長に従うようになった。
 長利のあとを継いだ子の長勝も信長に仕え、その没後は羽柴秀吉に仕えた。長勝は秀吉の忠実な大名の一人として、九州征伐や小田原征伐に参戦し、朝鮮出兵では肥前名護屋城に駐屯している。慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起ると東軍に与して、西軍に属した丸毛兼利の福塚城を落とす功をあげた。戦後、戦功により一万石を加増されている。
 慶長十四年(1609)、伯耆国米子十七万石の大名であった中村氏が改易となった。翌年、長勝は伯耆八橋藩へ移封され、二万三千石を領した。さらに、大坂の陣の活躍によって、越後三条藩五万石に加増、移封された。長勝は三条城の築城や城下町の建設、新田開発や伝馬制度の設立などに尽力し、元和六年(1620)に死去した。
 長勝は子に恵まれなかったため、家督は甥の長政が継いだが二万石に減知され、近江国仁正寺に移封となった。長政は多賀神社造営など幕府の奉行職を歴任し、近世市橋氏の礎を築き、慶安元年(1648)に死去した。子孫は、仁正寺藩主として続き明治維新に至った。・2006年11月05日
・仁正寺藩市橋氏陣屋跡


■参考略系図
・『美濃明細記』の市橋氏系図をベースに作成。
 


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