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石川(石河)氏
●対い鶴
●清和源氏義家流  
 


 石河氏は清和源氏頼親流と伝えられている。大和守源頼親の三男頼遠と子有光は、陸奥守源頼義に従って奥州に下向した。「前九年の役」の功により、陸奥国石川郡泉荘の支配を委ねら、この地に土着した有光が石川を称したのが始まりとされる。
 鎌倉幕府が成立すると、鎌倉御家人となった。有光の曾孫石川成田五郎光治は承久三年(1221)に起った承久の乱に出陣、軍功によって美濃国厚見郡市橋庄の地頭職に任じられた。市橋庄には弟の五郎三郎光重が入部し、子孫は市橋氏を称した。一方、光治の子孫ものちに美濃に下ったようで、戦国時代の駿河守光清は美濃鏡島城主であった。『新撰志』の厚見郡鏡島村条には、「古城跡は市場にあり。城主は石川駿河守光清(法名三関)はじめてここに住す。それ多田満仲の子大和守従四位下源頼親の末孫にて世々当国の住人也。」と記されている。

美濃石川氏の軌跡

 『新撰志』によれば、駿河守光清のあと、石川某(法名は江雲)、杢兵衛光信と続き、光信(光延とも)は織田信長に仕えた。その子杢兵衛光政・伊賀守光重(家光とも)兄弟は豊臣秀吉に仕え、光重は天正十六年 (1588) 四月の聚楽第行幸の際に天皇の鳳輦に供奉、また、相国寺領の丹波志津子郷における山林伐採の係争を処理するなど、秀吉の側近として活躍した。
 光重の嫡男光元は播磨龍野一万石を与えられ、小田原征伐や朝鮮出兵に従軍し、文禄四年 (1594)、従五位下紀伊守に叙位任官した。二男の光吉(貞清)は小田原の陣ののち、尾張犬山城主として一万二千石を与えられ豊臣氏直轄領である信濃木曾代官を兼ねた。三男兵助一光は天正十一年 (1583) 四月の賤ヶ岳の合戦で奮戦、柴田勢十数人と戦い闘死した。賤ヶ岳の合戦後、加藤清正、福島正則らが賤ヶ岳七本槍として賞されたが、一光が生きていれば七本槍のひとりに数えられたことは間違いない。
 このように、石川光重の一門は秀吉に仕えて活躍、光元、光吉は小さいながらも大名に出世した。しかし、慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦において、光元、光吉兄弟は西軍に属したために所領を失った。光元の子光忠は徳川家に仕え、慶長十五年(1610)一万石の大名となった。同十七年、尾張の徳川義直に付けられ、のち名古屋城代、以後尾張徳川家の家老職を世襲した。正章のとき、石川から石河に改めた。
 他方、杢兵衛光政の系は、伊賀守貞政が秀吉に馬廻として仕え、関ヶ原の合戦の引き金となった徳川家康の会津征伐に従軍し、その後の関ヶ原の合戦で奮戦したという。戦後、豊臣秀頼に仕えて五千石を知行した。十九年、片桐且元が出奔すると貞政も大坂城を退去し、高野山に入って剃髪したが、大坂の陣が始まると徳川方に属して戦い、豊臣氏滅亡ののち徳川幕府に出仕した。寛永系図が編纂されると、貞政も系譜を捧げたが、そのとき石川から石河に改めたという。
 石河氏は関ヶ原の合戦を契機としてさまざまな運命に翻弄されたが、徳川家旗本、尾張徳川家、さらには南部氏家臣となった者などさまざまな道を歩んだ。変わり種は石川光吉で、関ヶ原の合戦後、所領を没収された光吉は剃髪して宗林と号し、京都で金融業を営んだと伝えられている。・2006年11月05日


■参考略系図
 


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