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石谷氏
九 曜
(藤原南家二階堂氏流)


 石谷氏は藤原南家二階堂氏流を出自とし、ときには西郷も称したという複雑な家系を伝える。石谷系図によれば、二階堂行秋に子が無く妹が嫁いだ西郷民部少輔の子行晴を養嗣子とした。当時、公家の山科氏の所領地管理の地頭代であった西郷氏が、石谷氏に子を入れたあと、何らかの理由で没落して家系を詳らかにしないため、石谷氏と西郷氏が混同して伝えられた可能性もある。
 ところで、石谷氏は「イシガヤ」と読む。また、石谷氏の古城跡とされる美人ケ谷城が掛川市内北部にあり、その山麓には石谷氏の邸跡と伝える殿飼垣内という地名が残っている。その周辺には二階堂氏の館跡と伝えるところに二階堂神社があり、神社の西北には石谷氏の家紋石とされる九個の巨石が存在する石谷の里がある。

石谷氏の家系伝説

 『姓氏家系大辞典』に石谷氏は、「遠江二階堂流の石谷氏はイシガヤと読めど美濃の石谷氏はイシタニなり、遠江石谷氏は藤原南家二階堂氏を称す(寛政系図)もと二階堂を称し、行清外祖父西郷の家号を用い、その子清長また二階堂、その子政清石谷村に居住し石谷を称す」とある。『掛川市誌』は、「二階堂美啓=鎌倉将軍より五代、源頼嗣落城の節、三家の侍二階堂美啓は、御側用人戸塚平内左衛門辰信と同道流浪致した。この時正嘉元年三月遠江国佐野郡掛川在西郷村に落ち着き、美啓は六十一歳の老年に及び仏法に帰依し、持ち合わせの金子もあったから庄屋右京の取り持ちにより堂を建立、出家剃髪して庵主となり、二階堂と名付けた」と記している。この記述に関連するかのように、地元に一通の系図が写蔵されている。
 その系図は二階堂行政の孫行盛のところに註して美人谷二階堂とあり、傍系の行秋・行清などを『寛政系譜』が録す石谷氏に推定していることに創意性のみられる系図である。二階堂行盛は元仁元年(1224)、伊賀光宗の政所罷免に伴ってその職に任命され、建久五年(1253)十二月に七十二歳で没するまで政所執事として鎌倉幕府の要職にあった。遠江に来り美人ケ谷に陰棲して石谷・西郷両氏の祖となることは考えられないことである。
 また傍系に見える行清と西郷氏から養嗣子を迎えた行秋に至るまでの系譜も詳らかではない。石谷氏が二階堂氏の流れを汲むという説をまったく否定することはできないが、後世の付会である可能性の方が強いと考えるのが妥当であろうと思われる。
 いずれにしても、行晴の曾孫政清が石谷氏の祖とされる。政清は文亀三年(1503)に生まれた。二階堂左馬助清長の子で、郷士十八人の長として今川氏に仕え、永禄十一年(1568)、初めて子政信・清定とともに家康に仕えた。そして遠江国石谷に住して石谷氏を称したといわれる。永禄十二年正月、家康から軍功に対して新給恩として知行を与えられ、天正二年(1574)四月、七十一歳で没した。

徳川氏に仕える

 石谷政信および清定は、父政清とともに徳川家康に仕え、天正十八年(1590)家康江戸入部の後、多摩郡においてそれぞれ所領を賜った。
 清定の子清平は文禄元年(1592)、豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、家康に従って肥前国名護屋に行き、同地で病を得て没した。家督は二男の清政が継いだ。
 清定の三男貞清は独立して家を興し、大阪の役、島原の乱に従い上総・相模・甲斐などに知行千五百石余を賜り、江戸町奉行になった。
 地方の一土豪に過ぎなかった石谷氏が、寛永十四年の島原に乱に征討軍の副使として下向したり、慶安四年(1651)には将軍家光の遺命で江戸の町奉行に任じ、江戸騒掾を企てた由比正雪の一味を召し捕るなど、徳川幕府の要職に就いて史籍に名をとどめた左近将監貞清のような傑物を出したのも、政清が今川氏滅亡後、徳川家康に使えたのが家名復興のはじめであった。
 このように考えれば、二階堂氏を出自とするといい、西郷氏を称するといい、時代の流れに身を処すにはどれほどのことを果たしたであろうか。家の行く末を見誤らず、時に応じて誤りのない進退をしたことが、家の繁栄につながったということであろう。


■参考略系図
・詳細系図不詳。
    

Ver.1 系図


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