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石橋(塩松)氏
●丸に二引両
●清和源氏足利氏流  
 


 石橋氏は『清和源氏系図』によれば、足利家氏の子広沢太郎義利、その子吉田三郎義博をへて、義博の子和義を始祖とする。
 『尊卑分脈』では、石橋の名を記さず義利から和義・棟義父子に至る家系を掲げ、足利斯波家の家系とともに「当流両家をもって或いは尾張と号す」と注記してある。足利家氏の直系たる斯波尾張家に対して、広沢太郎義利を家氏と家女房の間に生まれた庶長子に位置づけ、さらに義利とその家女房に生まれたのが吉田三郎義博であり、和義をその子尾張三郎と記しているのである。
 義利の名字広沢は足利家領上野国広沢郷、義博の名字吉田は三河国吉田郷に、それぞれ負うという伝えもあるが、その真偽のほどは不詳である。いずれにしても、和義の父祖は鎌倉期御家人社会の趨勢からすれば、足利一門中で最高の家格を占めた足利斯波家に連なるとはいえ、斯波家の庶子のそのまた庶子という家系であった。

足利一門として活躍

 和義は吉田三郎義博の子でありながら尾張三郎を通称とし、建武三年(1336)の所見史料当初から尾張左近将監として記されているのは、斯波尾張家と密接な関係にあり、建武年間を迎えて大抜擢を受けた結果と思われる。そして、斯波尾張家の一員という認識の下に、和義は備前国大将、伯耆守護、備後守護、若狭守護を歴任し、長期間にわたって幕府引付頭人の要職につき、尊氏晩年と義詮政権初期には宿老として幕府評定衆の筆頭にさえ位置づけられたのであった。
 さて、石橋の名字についてである。いつ、何にちなんで、石橋を称したのか、実のところ全く未詳なのである。南北朝期の同時代史料を見る限り、石橋と明記するのは後半期になってからであり、康暦元年(1379)「当国大将石橋殿源棟義」と記した陸奥国名取熊野神社の一切経奥書が、奥州石橋氏の初見史料である。
 十五世紀の史料では『満済准后日記』をはじめとする各種史料がほとんど石橋氏として表記している。斯波尾張から石橋へという名字表記の変化の時期は、どうやら貞治二年(1363)八月、和義が斯波高経と訣別したときを境とするようにも見受けられるが、それにしても石橋呼称の理由はなお定かではない。
 和義は貞治二年に幕府執権となった斯波高経・義将父子と若狭守護職をめぐって対立し、守護職を奪われてしまった。この高経の行動に怒った和義は佐々木高氏と結んで斯波父子と対立、それぞれに大名らが馳せ集まり天下は騒然となった。それが直接の原因となって、八月、和義は若狭守護職を失い、いっさいの幕府官職からも解任されてしまったのである。
 こうして和義は中央での勢力を失ったが、貞治六年(1367)、和義の子息棟義が陸奥において活動していることが知られる。石橋氏と奥州の関係を示す史料は、延文二年(1357)の「幕府引付頭人奉書」にみえる和義が初見であるが、実際に下向したのは若狭守護を解任後の貞治六〜七年ごろであろうと考えられる。

奥州への下向

 和義の奥州下向の背景には、ともに奥州管領である斯波氏と吉良氏との関係において斯波氏が次第に優勢になることに対して、幕府が一定の歯止めをかけようとした。また、貞治五年(1366)和義から若狭守護職を奪った斯波高経が失脚したことで、将軍義詮が和義との関係を修復しようとした。それらが相俟って、和義の子棟義は奥州支配の特命を受け、奥州総大将として下向したようだ。陸奥に下った棟義は「陸奥守」を自称し、応安年間(1368〜74)に将軍義満と幕府管領細川頼之の取り立てによって陸奥守に補任され、奥羽の地で奥州探題斯波大崎氏らと特殊な守護職権を競合行使するのである。その棟義のもとへ、晩年の和義も赴いて、父子で奥州に一定の地位を築き上げたのであった。
 「陸奥守」という地位は、後醍醐天皇が奥州に送り込んだ北畠顕家、足利尊氏が南朝方に対抗させるために送り込んだ斯波家長にみられるように、奥州支配にとっては最高の官職名であった。棟義が「陸奥守」を自称し、のちに幕府から正式に補任されたことは義詮が和義にかけた期待がどこらへんにあったかが理解できる。そして、棟義の発した文書は所領安堵・所領領置が多いことが特徴的で、そこには奥州総大将としてまた陸奥守として、奥州管領と同様な権力行使を許されていたことがうかがわれる。棟義は陸奥守として、当初国府多賀府中に基盤を置いたようで、永徳四年(1384)まで、奥州における存在が確認できる。
 康暦元年(1379)に管領細川頼之が失脚した康暦の政変で、管領職に復帰した斯波義将は一族である奥州探題斯波大崎氏を後押した。大崎氏の地位が確立するにつれ、石橋氏は下向当初の権勢を失っていった。ついには、同時代の記録からも姿を消し、安達郡東方を分郡に塩松を名字とする在地領主化したようだ。
 石橋(塩松)氏の名がつぎに現れるのは、正長元年(1428)の『満済准后日記』の記事である。それには「奥州の篠河殿並びに伊達・葦名・白河・懸田・河俣・塩松以上六名に将軍の御内書を遣わした」とあるもので、ここに見える塩松氏が石橋氏のことであるという。棟義の消息が途絶えてのち四十余年を経て、石橋氏の子孫とみられる人物が記録に現れるのである。この人物は、石橋氏系図から棟義の子満博にあたるかと思われるが、それを裏付ける史料はない。

塩松への土着

 明徳三年(1392)、鎌倉の関東公方足利氏満は、陸奥・出羽が関東府の管轄下となったことを白河結城氏に伝え、鎌倉に参候するように命じた。ここに南奥州は新しい政治体制下に組みこまれることになる。また、これより前に関東公方氏満は関東において、より強力な支配体制を確立しつつあり、幕府に対して独立的傾向を強めていた。この時代の動きは、奥州にも影響を与えずにはおかなかった。そのような時期に塩松地方の領主であった吉良満家が鎌倉への帰参を命じられ、宇都宮氏広が四本松に入部してきた。
 氏広に関しては根本史料に見えないが、『喜連川判鑑』『鎌倉大日記』などに氏広が奥州で活動していたことが記されていることから、氏広の存在をまったく否定することはできない。そして、応永七年(1400)、奥州探題斯波詮持が宇都宮氏広を誅し、首を鎌倉の関東公方足利満兼のもとに持参した。これは、氏広父子に野心があったので詮持が誅戮したのだという。
 さて、正長元年の『満済准后日記』にみえる篠河殿は、関東公方氏満の子息満直であり、以下、伊達氏は伊達持宗、葦名氏は葦名盛信、白河氏は結城満朝、懸田氏は懸田入道定勝、・河俣氏は河俣飛騨入道、塩松氏は石橋治部大輔で、かれらは南奥のそうそうたる国人領主であった。この史料から、南北朝期には政治的に優位にあった石橋氏が南奥の国人領主のひとりとなっていたことが知られる。
 ところで、石橋氏が塩松に入部した事情はどのようなものであったのだろうか。一つは、先述のごとく応永七年(1400)に宇都宮氏広が斯波詮持に伐たれたのちに、石橋満博が詮持に代わって塩松を治めたとするもの。ついで、『伊達世臣家譜』の「塩松家譜」には「初代石橋棟義から数えて七代の子孫、尾張守重義、永享・嘉吉年間(1429〜43)、関東擾乱のとき、上杉家に属し戦功があった。文明三年(1471)二月上杉顕定と戦って敗れ、奥州安達郡二本松に来て畠山政泰に寄託し、四本松城主となった」とあるが、詮持に代わって塩松を治めたとする説が有力である。
 また、『満済准后日記』から、石橋氏が「京都御扶持衆」の一員であったことが知られる。京都御扶持衆とは、幕府と鎌倉府との対立から生まれたもので、将軍足利義教は幕府に反抗的な態度を示す関東公方足利持氏を押えようとして、関東・奥州の国人たちを扶持衆として組織したのであった。しかし、このことが、逆に幕府と鎌倉府との対立を増加させたのである。すなわち、篠河御所満直は関東公方の地位を望み、鎌倉府の締め付けを嫌って幕府と強く結びついていた伊達氏をはじめ奥州の国人領主たちは、それぞれの思惑をもって関東公方持氏との対立を深めていった。

奥州と京都の石橋氏

 篠河御所満直は奥州国人の取りまとめ役を担っていたようだが、在地にあって実際に調整役をしていたのは石橋治部大輔であった。そして、幕府の奥州における拠点は石橋治部大輔の所で、幕府の使者が塩松(石橋)治部大輔の所に逗留したことが『満済准后日記』に記されている。このことから、石橋氏は幕府との間に特別な関係を有していたようだ。しかし、南北朝期のように幕府から派遣されたといったものではなく、「京都様扶持衆」のひとりである一国人領主に過ぎなかった。
 ところで、奥州に石橋治部大輔がいたころ、京都には幕府の重臣として奥州の諸氏との取次ぎ役を担う石橋左衛門佐入道がいた。ただし、南北朝期のように足利氏一門という地位はもはや失い、守護大名の列からも完全に外れた存在であったようだ。
 京都の石橋氏は「左衛門佐」を官名として用いているところから、石橋和義の左衛門佐に連なる者として、石橋氏惣領の地位を認められていたものと考えられる。しかし、奥州の塩松石橋氏との系譜関係は不詳で、別系の流れであったと思われる。また、塩松石橋氏からは、塩松・大内・石川・小野寺・中村・大河内・四本松など数多くの庶子家が輩出したと伝えられが、それぞれの系譜上の位置付けは明確ではない。
 永享十年(1438)八月、将軍足利義教は南奥の扶持衆に「上杉安房守に合力の事、佐々河(篠河)殿の手に属して忠節を致被れ候」という内容の御内書を発給した。このころ、将軍義教と関東公方持氏の対立は決定的な段階を迎えていた。ここに至るまで、関東管領上杉安房守憲実は持氏に諫言を行っていたが、かえって持氏に攻められ「永享の乱」となった。そして、将軍義教は南奥の国人領主たちに上杉安房守を援助することを命じたのである。しかし、石橋治部大輔をはじめとする南奥の扶持衆らがどのような働きをしたのかは不明である。

関東の戦乱

 永享の乱は幕府の介入によって、あっけなく持氏方の敗北に終わり、持氏は自害を命じられ鎌倉府は断絶した。これまで、鎌倉府の南奥の国人衆らに対する影響力は強く、持氏がいなくなったことで、南奥は政治的に安定をみせることと思われた。ところが、南奥の国人衆と幕府を結び付ける役割を果たしていた篠河御所足利満直が、永享の乱後に起った結城合戦のどさくさにまぎれて殺害されてしまったのである。
 事件のことは『会津旧事雑考』に「永享十二年、佐々河死」と記され、『積達館基考』では「永享十二年六月廿四日、畠山満泰、同宮内大輔持重、石橋左近将監、同右兵衛佐祐義、葦名修理大輔盛信、田村刑部大輔利政等、攻笹川城」と記している。ここに記された石橋左近将監は系図に見える満博で、同右兵衛佐祐義は満博の子とされる尾張守祐義のことと思われる。石橋氏は幕府の権威を背景とするのではなく、塩松を領する一国人領主として生きる道を選んだのであろう。
 その後、将軍義教が嘉吉の変で殺害されると、持氏の遺児永寿王丸が許されて関東公方となり、成氏を名乗って鎌倉府が再興された。しかし、成氏は上杉氏を父の仇とし、父や兄に加担して没落した結城氏らを再興させて側近としたため、それに反対する関東管領上杉氏と対立するようになった。享徳三年(1454)、成氏は上杉憲忠を謀殺したことで「享徳の乱」が起った。以後、四半世紀にわたって関東は大乱の時代となり、戦乱の影響は南奥にまで及んだ。
 長禄四年(1460)幕府は成氏に対して大攻勢をかけ、南奥の諸氏にも御内書が送られた。このとき、塩松松寿には「二本松と相談し、行え、戦功があったら喜びにたえない。詳しくは石橋左衛門佐が申す」というもので、二本松にも塩松氏と相談するようにとの御内書が送られている。石橋左衛門佐は幕府に仕える石橋氏であり、奥州の取次ぎ役を行っていたことが知られる。このとき、塩松氏がどのような行動をとったかは不明だが、おそらく他の南奥の諸氏同様に出陣はしなかったようだ。その後も幕府の成氏攻めは続き、文明四年(1471)にも将軍義政からの軍勢催促がみられる。

塩松石橋氏の動向

 奥州の中世史を知る史料に『余目氏旧記』が知られる。「旧記」の成立年代は永正十一年(1514)ころとされ、留守余目氏の事蹟を中心として、奥州管領および篠川・稲村両御所をめぐる南奥の伊達・白河・葦名氏らの国人領主らの動向がかなり詳しく叙述されている。ところが、「旧記」における石橋氏の記述は驚くほど少ない。このことは、石橋氏が奥州管領(探題)斯波大崎氏から、同等の家格とみなされていたことが原因であるとみられている。すなわち、石橋・畠山氏らは斯波大崎氏に臣従するものではなく、ともに足利将軍家の一家であることから、斯波大崎氏とは同朋であり上下関係にはなかったとされていたというのである。
 「余目氏旧記」によって、奥州における石橋氏の政治的地位が明らかにされ、その地位は足利将軍家があるかぎり、一定の地位を保つことができたことを示している。しかし、室町時代から戦国時代に至る石橋氏の動向は系図と断片的な史料からうかがわれるばかりで、必ずしも明確ではない。
 そのようななかで、動向が知られるのは塩松松寿で、松寿は関東大乱の時代を生き抜いた人物であった。関東大乱の時期、伊達氏・白河結城氏・会津葦名氏らはさかんに軍事行動を興し、周囲の国人領主らを従えるようになっていた。時代は、確実に戦国時代へと進んでいたのである。松寿は家博と同人とみられるが在地支配に関する記録はまったくなく、わずかに文明十四年木幡山弁天堂を建立したときの棟札が残されている。
 塩松は「四本松」とも記されるが、四本松の名称は江戸時代に「二本松」に語呂を合せてつくられたもので、中世においては塩松と呼ばれていた。塩松石橋氏の居城は「塩松城」であったといわれるが、その所在は一定せず、『積達館基考』によれば上太田の「住吉山城」が塩松氏の居城であったと伝えられている。
 十五世紀の戦乱のなかで、勢力を拡大してきた伊達氏は稙宗の代になると「陸奥守護職」に任ぜられ、奥州屈指の存在となった。稙宗は多くの子女をもって近隣諸大名と姻戚関係を結び、米沢城を拠点としてその威勢は隆々たるものがあった。ところが、天文十一年(1542)稙宗と嫡子晴宗の対立から「伊達氏天文の大乱」が起った。乱は伊達氏家中にとどまらず、たちまちのうちに南奥の緒大名を巻き込んで一大戦乱となった。

石橋の衰退と滅亡

 乱に際して塩松氏は稙宗党に加担、同派の畠山義氏が家臣団の離反に遭ったとき、田村氏とともに畠山義氏に離反した家臣らを降伏させている。天文十五年、塩松尚義は畠山義氏・田村隆顕らと安積郡に兵を進め、安積郡の武士は尚義らに降った。しかし、翌年になると、晴宗方の優勢がほぼ確定し塩松尚義も晴宗方に転じた。そして、天文の乱は稙宗が隠居することで終熄したのである。
 天文の乱における塩松氏の行動は、十五世紀なかばにおける南奥州諸大名の一員として、一定の勢力を保持していたことをうかがわせている。やがて、塩松石橋尚義に属していた大内備前義綱が尚義を圧倒するまでに勢力を張り、石橋家中でも義綱に従うものが増えていった。この事態に、尚義は米沢に参上して晴宗の出馬を請うたため、ついに晴宗が出馬した。しかし、それは一時的な対応に過ぎず、石橋氏の威勢は衰えを見せる一方であった。
 「石橋氏系譜」によれば「石橋久義(尚義)は天性不覚悟であったために、天文十九年(1550)家臣の大内定頼によって四本松城の二の丸に幽閉され、久義に代わって定頼が四本松城主となった。のち久義は労人となり、天正五年(1577)に死去した」と記されている。
 他方「奥陽仙道表鑑」には「石橋久義は大内能登守・石川弾正・寺坂山城守・沢神但馬守などによろずの政事を行わせ、自身は歓楽を事としたため、武威は次第に減じ、法令は相違するに至った。石橋家の滅亡近しとして、志ある者が久義に諫言したが、寺坂・沢神らがこれを抑える有様であった。石橋新介という文武にすぐれた家臣が諫言したが、久義はこれを入れなかったばかりか、その出仕を停止した。その後、久義は嫡子松丸の補佐を家老らに頼んで病死した。間もなく家中は分裂し、松丸は一族の者に擁されて相馬氏を頼んで中村に落ちたことで石橋氏は滅亡した」とみえている。
 その他、さまざまな説がなされているが、石橋塩松氏は天文末年ごろに家中の離反と内訌によって危機に瀕するなか大内備前に実権を委譲し、永禄十一年(1568)に至って大内備前が田村氏に内応したことで、ついに滅亡したものと考えられる。その後、元亀三年ころの葦名盛氏書状に見える「塩松」は大内氏をさしたものであろうとされている。・2006年2月14日

参考資料:福島県史/岩代町史 ほか】


■参考略系図
   


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