戦国時代の伊勢において、伊勢国司北畠家に拮抗する勢力をもっていた国人領主に長野氏がいた。長野氏は、藤原南家工藤氏流で工藤祐経の三男祐長が、長野の地頭職となり安濃・奄芸二郡を給わったのがはじまりとされる。 伊勢に下向したのは祐長の子祐政で、祐政の長男の祐藤は文永十一年(1274)に長野城を築き居城とした。そして、祐藤の長男の祐房が家督を継ぎ、祐房の弟祐宗は細野家を興し、さらに祐高が雲林院家を興した。これが、雲林院氏の始まりと伝えられている。 雲林院氏の家系・来歴は必ずしも明確ではないが、長野氏の有力一族として中世を生き抜き戦国時代に至ったことは疑いないことである。 雲林院氏に関する記録 伊勢の中世史を知る資料として、『勢州四家記』『勢州軍記』がある。いずれも江戸時代の編纂によるもので、その記述をそのままに受取ることはできないが、そのなかに工藤一族のことが記されている。 『勢州四家記』には、「工藤の一家とは工藤左衛門尉藤原祐経の後胤なり。先祖工藤次郎左衛門尉親光、足利尊氏卿へ仕へ、子孫繁昌して勢州安濃郡長野に居住し、名字を長野と号せり。工藤の両家督といふは右長野工藤の大将なり。奄芸郡雲林院と一味し、各侍地下人共に軍兵千の大将なり。此両家は足利将軍の侍なり。(後略)」とあり、『勢州軍記』には、「北伊勢工藤の一家は、鎌倉の御家人伊豆の国の住人、工藤左衛門尉祐経の後胤、幕紋は木香三引両なり。先祖工藤二郎左衛門高景が、元弘元年のはじめ安濃郡長野を賜ったという。(中略)工藤の両家督は安濃郡長野家がその一人である。故に工藤の大将である。奄芸郡雲林院家がその二人である。故に工藤の一味である。それぞれ安濃・奄芸両郡の中で領地がある。両家は共に侍六百人、内馬上百騎、小人四百人、合わせて一千の大将である。(後略)」と記されている。 このように『勢州四家記』『勢州軍記』ともに、雲林院氏は長野氏とともに工藤の両家督と記され、その本支のほどは明らかではない。おそらく、雲林院氏と長野氏とは本家・分家の関係というよりは、車の両輪の関係で、ともに一体となって戦乱の世に処したのであろう。 長野氏の歴代が比較的明らかなのに対して、雲林院氏の歴代は不明な点が多い。『系図纂要』によれば、祐藤の子祐高(祐尊とも)が元弘元年(1331)に始めて雲林院城に入ったとして、祐高を雲林院氏の初代としている。そして、祐高以後、戦国時代末期の兵部允高祐まで十二代が次第したことになっている。ともかくも雲林院氏の系図を伝えるのは、『系図纂要』ばかりで、それ以外の史料では「雲林院」とのみ記し、その名を逸しているものが多い。 たとえば、美濃夜神社の棟札のうちの弘治元年(1555)の鳥居一宇を施入した際のものに「大檀那雲林院工藤高均」とあり、永禄三年(1570)の溝淵大明神の上梁文に「大檀那藤原朝臣雲林院十一代藤保」とある、さらに、『勢陽雑記』に「雲林院何某」、『伊勢一国旧城跡附』に「雲林院出羽守俗名藤次郎」などの名があらわれるが、すべて『系図纂要』には見えない名ばかりである。 戦乱と雲林院氏 いずれにしろ雲林院氏は、南北朝の初めごろに雲林院を給わりそこに拠点をおいてより、天正のころまで勢力を維持し、その間、長野氏をはじめ草生・細野・分部らの工藤長野一族と協力して安濃・奄芸二郡に威勢をはった。そして、国司北畠氏や関氏らの諸家とともに、勢州四家の一つに数えられ、足利将軍の幕下に属して忠誠を尽くしたのであった。 雲林院氏の初期の動向は詳らかではないが、南北朝の対立のなかで、国司北畠氏や関氏らの南朝勢力に対して、長野氏と結んで抗争を繰り返した。明徳三年(1392)、南北朝の合一なり、半年に及んだ南北朝の争乱に終止符が打たれた。ところが、合一の約束を幕府が反故にしたため、応永二十二年(1415)、国司北畠満雅は萩野氏、関氏一族らの協力を得兵を挙げた。このとき、雲林院氏は長野氏らとともに幕府軍に属して、関氏らが立て籠る拝野城を攻撃した。応永の乱と呼ばれる争乱で、幕府が満雅に両朝迭立のことを守ると誓約したことで和議がなった。 正長元年(1428)、足利将軍家に後嗣問題が起り、さらに称光天皇が病気になられて皇嗣が問題となった。北畠満雅は今度こそ約束が守られると思ったが、結果は見事に裏切られた。満雅は小倉宮を奉じて安濃の岩田城に入ると、関盛雅らの協力を仰ぎふたたび兵を挙げた。この「正長の変」に際して幕府は、土岐持頼を大将とする討伐軍を送った。このなかに、雲林院・長野の両氏も仁木・一色の諸将とともに加わり、岩田川の戦いで北畠満雅を敗死せしめたのであった。この戦いにおける雲林院・長野両氏の戦功は抜群で、戦後、恩賞として一志郡を給わった。 満雅の敗死によって北畠氏の抵抗も止み、以後、北畠氏も幕府の命に服するようになった。ところが十五正世紀の半ばになると、将軍家に後継ぎ問題から内訌が生じ、それに加えて幕府管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いが起った。畠山氏の家督争いは武力衝突となり、寛正元年(1460)河内国嶽山において激戦が行われた。この戦いに雲林院・長野の両氏は将軍義政の命を受けて出陣、畠山義就の軍と戦い多くの死傷者を出した。雲林院・長野両氏の実力は中央の政争において重視され、その家勢は盛んなものがった。 そして、応仁元年(1467)「応仁の乱」が勃発すると、雲林院・長野両氏は東軍に属して戦った。とくに、応仁の乱における最大の激戦といわれる「相国寺の戦」に関氏一族とともに参加し、奮戦したことが知られる。この「相国寺の戦」以後、戦国後期に至るまで雲林院氏の消息は史料上から姿を消すのである。 |
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