戦国時代、伊勢楠氏が拠った楠城は、応安二年(1369)に諏訪十郎貞信によって築かれたと伝えられる。貞信は信濃諏訪の住人で伊勢国司北畠氏に仕え、二代貞益は北畠顕家から中島四郷を賜わり中島氏を称したという。他方、『伊勢名勝志』によれば、楠正成異腹の子諏訪十郎正信が信州より伊勢に来住、楠城を築いたとみえる。さらに『桑名市郡城址考』では、正成異腹の子諏訪十郎正信が延文三年(1358)信州より来たり三重郡四郷を領して中島村に住したとある。 このように楠城のはじめについては諸説があり、いずれが正しいのかは不明というしかない。それぞれの真偽はともかくとして、楠木正成の後裔を称する楠氏が代々城主の座にあって戦国末期に至ったことだけは動かせない史実といえそうだ。 楠城があった楠町(現在四日市市の一部)の『町史』では、伊勢楠氏の出自を楠木正成の三男楠木正儀の子正勝を祖にしている。 楠木氏は通説によれば橘姓といい、鎌倉時代末期に登場した楠木正成一代の活躍で世に現れた。正成のエピソードの数々は『太平記』に詳しいが、後醍醐天皇の討幕運動に尽力し、摂津湊川において足利尊氏と戦って討死した悲劇の武将として知られる。そのような正成像は南朝正閏論が生み出した虚像であることはいうまでもないが、傑出した武将であったころは疑いないところである。正成が戦死したあと、その子正行・正時は足利軍と河内の四条畷で戦って戦死、そして三男の正儀は北朝と南朝の間に揺れ動いたすえに歴史の表舞台から消えていった。 伊勢への土着 正儀の子という正勝は南朝の勢力が衰えていく中で、河内周辺を転戦するも勢力振るわず、明徳三年(1392)、拠点千早城も落城した。奇しくも明徳三年は、南北合一がなった年であった。居城を失った正勝は、兄弟の正元・正秀らとともに行方知れずとなった。その後、大内義弘が応永の乱を起すと、楠木勢二百余騎が義弘に味方したという。楠木勢を率いた大将は正勝であったというが、真偽のほどは分からない。この正勝の子正顯野子孫が、伊勢楠城主楠氏として続くのである。 応永の乱は大内方の敗北に終わり、楠木一党は伊勢の北畠顕泰のはからいで鈴鹿郡鹿伏兔に落ち延びた。そして、応永十九年(1412)、正顯の三男正威が諏訪氏のあとを継ぐかたちで顕泰から伊勢楠城を与えられたのである。しかし、正威は幼かったため、父の正顯が代官をつとめた。 嘉吉三年(1443)九月二十三日、正威の叔父正秀や日野有光、越智伊予守、湯浅九郎等は、後亀山上皇の子孫、金蔵主・通蔵主兄弟(一説には後亀山上皇の皇孫の教尊(小倉宮の皇子))を奉じて内裏に侵入し、三種の神器と宝剣を奪い去った。この禁闕の変と呼ばれる企てに正威も加わり、神器を奪った一行は比叡山に立て籠ったが、幕府軍と山徒らの攻撃によって金蔵主・日野有光らは討死し、正威もこの変において戦死してしまった。 正威が戦死したのちの楠城主は、正威の子の正富が継ぐところであった。しかし、禁闕の変後、幕府による南朝遺臣の取締りは厳しさをまし、楠氏を名乗っているだけで幕府に討たれるおそれがあった。そのため、北畠氏の計らいもあって、楠氏は楠城には入らずに代官支配とした。そして、代官は楠正顕の孫正重の子正重(父と同名)が任じられ、正重は楠木の名を隠して川俣と名乗った。以後、川俣氏の代々が応仁元年(1467)まで楠城代官をつとめた。 乱世を生きる 応仁元年、将軍家、幕府管領畠山氏における後継者争いから応仁の乱(1467〜1477)が勃発した。すでに南朝勢力は衰微しており、乱の影響もあって幕府の南朝遺臣追求の手も緩和されていた。かくして、文明十八年(1486)、楠正富の子正充(1477〜1532)が楠城主として返り咲いたのであった。正充の墓は、いまも伊勢楠氏の菩提寺正覚寺に遺されている。 正充の生きた時代は戦国乱世への過渡期であり、子の十郎左衛門正忠(正孝)の代になると文字通り戦国乱世の真只中となった。正忠は北勢の雄関氏と並ぶ勢力を有する神戸氏に属し、さらに近江の戦国大名である佐々木六角氏に好を通じて乱世に身を処した。 やがて、伊勢の隣国に位置する尾張の一角から織田信長があらわれ、群雄割拠する戦国時代に一大転機をもたらすことになる。信長は尾張国内を統一すると、永禄三年(1560)駿河の今川義元を桶狭間の合戦で討ちとり、永禄十年には美濃の斎藤氏を追って美濃を掌握、信長の勢力は大きく伸張していった。上洛をめざす信長にとって、伊勢の征圧は必須であり、永禄十年(1567)、伊勢侵攻を開始した。 まず、信長の部将滝川一益を総大将とする織田軍が北伊勢に進撃したが、神戸氏、関氏らは滝川軍を迎え撃ち、正孝も楠城に拠って織田勢を相手に奮戦した。ついで同年八月、信長みずからが大軍を率いて伊勢に侵攻した。正孝の嫡男七郎左衛門正具はわずか五百の兵をもって、果敢に織田軍に抗戦、何度も織田軍に苦戦をしいた。織田軍との戦いにみせた正具の知略と奮戦振りは、さすが楠木正成の子孫と称えられたと伝えられる。 北伊勢諸勢力の手強い反撃に手を焼いた信長は、翌永禄十一年、体制を整えるとふたたび伊勢に侵攻してきた。信長勢の猛攻の前に関氏や神戸氏らは次々と信長と講和したが、八田城に拠る正具は降伏の勧めにも応ぜず抵抗を続けた。しかし、正具が主と仰ぐ北畠具教までが信長と講和を結んだことで、孤立無援となった正具は八田城を脱出すると大坂石山本願寺に入った。 信長は憎い正具の引渡しを本願寺に迫ったが、本願寺門主顕如はこれを無視して、正具を匿った。かくして、正具は本願寺方の武将として織田軍と対峙したが、天正四年(1576)、木津川の戦いにおいて信長軍の流れ玉にあたって戦死したという。 伊勢楠氏の終焉 正具が去ったあとの楠城は、正具の娘婿正盛(盛信)が織田信長の命により城主となった。正盛は北畠氏を継いだ北畠信雄に仕え、天正十年六月に起った本能寺の変で信長が死去したのち織田姓に復した信雄にそのまま仕えた。 信長死後、信長の後継者になろうとした信雄は、羽柴(豊臣)秀吉の知略に破れ、尾張・伊賀・伊勢百万石の大名として遇された。しかし、急速に権勢を拡大する秀吉への危機感を深めた信雄は、徳川家康と同盟して秀吉との対立姿勢を明確にした。そして、天正十二年(1184)、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄連合との間に小牧・長久手の合戦が起った。信雄軍に属して出陣した正盛は、美濃加賀野井城で羽柴秀吉軍との戦いで討死、伊勢楠氏は滅亡した。 【参考資料:楠町史 ほか】 ■参考略系図 ・伊勢楠氏系図に関しては、 『伊勢楠氏系図』 『四十八家楠氏』などが、ウェブ上において紹介されている。 |