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色川氏
●揚羽蝶
●称桓武平氏維盛流  
・色川郷に伝わる平家の旗から。  


 中世、紀伊国牟婁郡にある色川郷を領した在地領主に色川氏がいた。色川郷は熊野三山の一である那智大社の後背地である山間部に位置し、有名な妙法鉱山のある所として知られる。かつて色川には、口色川、大野、籠、阪足、樫原などに銅鉱があり、鉱石により川の水が染まっていたことから色川と呼ばれるようになったのだという。

色川氏の登場

 色川氏は系図によれば、桓武平氏平維盛の後裔を称している。維盛は清盛の孫で、小松内大臣重盛の子である。壇の浦の戦いに敗れた維盛は、高野山に入り、山伏姿になって熊野に向かった。本宮から新宮、さらに那智山と落ちのびた維盛は、いずこの土地も源氏の勢力が強く、ついに勝浦の山成島で入水したという。しかし、入水自殺は源氏の追及を欺くための方便で、熊野那智沖の山成島に渡り、のち太地に上り太田の里を越え、色川に至って年月を過ごした。そのような維盛を迎えたのが、色川郷の豪族色川左衛門佐であった。左衛門佐は山奥の鹿谷に隠れ家を構えると、維盛をかくまった。
 『熊野年代記』 によると、建久元年(1190)、「色川宗家至鎌倉」と記録が残っている。平家を滅ぼしたとはいえ、源頼朝は平家残党征伐の手をゆるめていず、色川宗家を呼んで、維盛は果たして入水したものか、また維盛を匿った科を問責する意であったという。翌二年、色川衆鎌倉に入ると記し、なを宗家以外の者も取調べられた。維盛はすでに色川から逃避したあとになっていたので、不在のいま、色川氏は知らぬ存ぜぬ嘘偽りなしと突っぱねた、と伝えられている。
   かくして、色川郷に落ち着いた維盛は、大野に掻上の城を築き、盛広・盛安の二人の男子をもうけた。盛広は清水権太郎と名乗り、盛安は清水小次郎のちに水口氏を継いで水口小次郎を名乗った。どこまで真実を伝えたものかは疑問だが、色川郷には平家の紋章とされる揚羽蝶を描いた絹布や幟、そして能面などの文化財が残されており、維盛の墓地も遺されている。 いずれにしろ、色川氏のいう維盛後胤譚は、日本各地に伝わる平家落人伝説のひとつであろう。
 家伝によれば、盛広から八代の孫盛重が権守となり、近在を領有し、太田・色川を治めた。一方、系図によれば、盛広から五代の孫盛氏が左兵衛尉を名乗り、色川氏を称したとみえる。盛氏は南朝方に属して忠功を重ねて、建武四年(1334)、綸旨を賜ったという。その子兵衛大夫盛忠も南朝方に尽くし、その妹は小倉宮尊義王の側に仕えて尊秀王(自天王)を生んだと伝えられている。

堀内氏の台頭

 戦国時代、熊野の一角に山伏あがりとも、新宮十郎の後裔ともいわれる堀内氏が突如としてあらわれ、佐野を根拠地としてにわかに勢力を拡大した。
 熊野三山は別当職が全山を統轄したが、戦国時代には新屋・芝・宮崎・滝本・矢倉・中曽・蓑島の七家が、七人上綱として三山を治めていた。なかでも新宮十郎の後裔新屋氏は、およそ一万石を領して最も勢力があった。
 熊野の支配を目論む堀内氏虎は、七人上綱との平和維持を保ちながら、着々と地歩を固めていった。さらに、どのように手続きをしたものか、熊野別当職に任じられた氏虎は三山の統轄権を掌握し、七人上綱の上に立つようになった。
 戦国時代、那智山は藤倉城の実方院、石倉山城の文善坊、浜の宮に勝山城を築く廊ノ坊が那智三坊と称されて勢力があった。なかでも廊ノ坊は「承久の変に京方となり、熊野に落ちた池大納言頼盛の孫保業の子保秀は那智浜の宮の勝山に城を築き居城。那智山には執行代をおいて宗務を執らせ、古座川の高川原に検断人をおいて領内の政道を行わせた。そうして、串本の米粒島から勝浦までの網代銭を代々取り仕切った」という古くからの実力者であった。
 氏虎のあとを継いだ氏善は、熊野の伝統勢力である有馬氏のもとに子楠虎を養子として入れ、三山きっての門閥である実方院米良氏には道慶を入れるなどして、熊野最大の勢力となった。
 天正元年(1573)、氏善は実方院とともに石倉山を攻撃、文善坊を攻略した。文善坊は清水姓であることから、色川清水一族と思われるが、氏善の石倉山攻めに際して色川氏が文善坊を支援した形跡なない。文善坊を降した氏善は、廊の坊の汐崎重盛に降伏を勧告した。これに対して汐崎重盛は勝山城を改修し、色川兵部盛直と結んで氏善の攻撃に備えた。

堀内氏の熊野統一に抵抗

 天正六年、廊ノ坊を攻略しようとした氏善は、堅牢な勝山城と汐崎重盛の抵抗にあい、苦戦を強いられた。氏善の攻勢を退けた重盛は、色川兵部をはじめ、那智山の等覚坊・少納言殿・大膳殿、古座の高川原氏らを恃んで氏善に抗戦を続けた。しかし、廊ノ坊は次第に劣勢に追い込まれ、天正九年、勝山城は満を持した堀内勢の攻撃を受け、三ヶ月にわたる攻防のすえに城は落ち重盛は討死した。その間、色川兵部は廊ノ坊を支援して、実方院を攻め、勝山城に入ったが頽勢を覆すことはできなかった。
 廊ノ坊を滅ぼした氏善は、色川への攻撃を開始し、太田の小匠、小色川から攻め込んだ。対する色川兵部は鳴滝城で防戦、さらに、平野越から攻めかかる堀内勢を石攻めによって撃退した。翌年、氏善は嫡男行朝を大将として平野から攻めたが、色川勢はふたたびこれを撃退している。かくして、汐崎重盛が討たれたあとも盛直は屈せず、堀内・米良の連合軍と対峙を続けていた。堀内勢は何度も攻め寄せたが、色川氏は鳴滝城に拠って防戦につとめ、ついに堀内氏に屈することはなかった。
 堀内勢は色川氏を攻めつつ、古座で堀内勢の南下を拒む高河原氏にも兵を向けた。田原佐部を入手した堀内勢は、椎橋権左衛門を佐部城に配して高河原氏に対峙させた。天正十二年、高河原氏は小山・安宅氏らを頼んで佐部城を攻撃、権左衛門を討ち取り佐部城を攻略した。佐部城を失った氏善は、高河原氏と交渉して佐部を境にして、ついに南下をあきらめるに至った。
 やがて、豊臣秀吉の天下統一がなると、堀内氏は秀吉麾下の大名となり、奥熊野六万石を安堵され残り九万石の代官に任じられた。ここに至って、ついに色川氏も鉾をおさめて豊臣政権下の堀内氏に降ったのである。ときに天正十九年のことであった。

色川氏、余聞

 文禄元年(1592)、豊臣秀吉の朝鮮出兵が起こった。熊野からは堀内氏善をはじめ、色川兵大夫、小山石見守、高瓦帯刀らが出陣した。色川氏は堀内氏との経緯があって、氏善には従わず、豊臣秀長の家老藤堂高虎に従って朝鮮に出征した。また、文禄の役当時、勇将色川兵部はすでに老齢であったことから、大船五艘を建造して献納、一族の色川三九郎をして出陣させている。
 その後、三九郎は豊臣秀頼に仕え、慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦における不手際により牢人となった。
 元和五年(1619)、徳川家康の子頼宣が紀州五十五万五千石の大守として入国してくると、頼宣の付家老として新宮城主となった水野氏に仕え、近世に生き残った。『大日本史』を編纂した徳川光圀は、家臣佐々宗淳を紀州に遣わして、庄屋に伝わる「色川文書」を調べさせたことが知れれる。・2006年11月12日


■参考略系図
・和歌山県立図書館蔵の系図から。
    


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