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入江氏
●三つ輪の上の輪の内甃/丸に甃(石畳)
●清和源氏満政流/藤原南家流?
 


 中世の家紋研究において必見の書といわれる『見聞諸家紋』に、摂津高槻城主であった入江氏の家紋「三つ輪の上の輪の内甃」が収録されている。見聞諸家紋は『東山殿御紋帳』とも称されるように、作成されたのは将軍足利義政の時代、応仁の乱のさなかであったと考証されている。入江氏ら摂津国人衆は幕府管領で東軍の総帥細川勝元に属し、京に滞在していたところを記録されたものであろう。
 入江氏の出自はといえば、『尊卑分脈』や『系図纂要』などに駿河国有度郡入江を名字の地とする藤原南家工藤氏流の入江氏がみえている。しかし、同じ工藤一族である興津・蒲原・原・船越氏らは『吾妻鏡』に散見するが、鎌倉時代における入江氏の在地領主または地頭としての記録はない。ただ、系図のみがその存在を伝えるばかりである。

入江氏の歴史への登場

 入江氏の名が歴史にあらわれるのは、十四世紀、入江左衛門尉春倫のときである。春倫は元弘元年(1331)後醍醐天皇が笠置山で挙兵したとき、入江・蒲原の一族千二百余騎とともに幕府討伐軍に加わり笠置城攻めに功をあらわした。そして、春倫は駿河国入江荘の地頭であったことが知られる。その後、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇に降り、本領安堵の綸旨を賜って地頭職を保った。
 天皇親政で始まった建武の新政であったが、その時代錯誤な施策と不公平な恩賞の沙汰は多くの武士に失望を与えた。建武二年(1334)、北条高時の遺児時行が信濃で兵を挙げ鎌倉に攻め上った。いわゆる「中先代の乱」で、敗れた足利直義は鎌倉を脱出すると成良親王を奉じて東海道を引き退いた。その敗走路には入江荘が位置し、入江一族が北条方に加担すれば逃げ道を塞がれることを危惧した直義は、春倫のもとへ使者を送った。  使者に接した春倫の一族のなかには、「北条氏再興のときなり、直義を討って時行に参ぜん」という者が多かった。そのとき春倫は「天下の落去は我らが知るべき所にあらず、(中略)綸旨を拝領仕り一家を養うこと、是は天恩の上に猶、重きを重ねたり。此の時、いかで傾廃の弊に乗りて不義を致すべきか。一門の人は心々たるべし。春倫に於ては一人なりとも宮方に参り、腹を切らん」といいきったと「太平記」に記されている。このことばに一族は「げにも」と同心して、興津宿に宮を迎えつため出立したが、時行に加担した伊豆・駿河の兵が押し寄せていて宮方は危機に陥っていた。春倫の率いる入江一族は宮方に加わって防戦につとめ、漸く手越の宿まで退くことができた。
 その後、乱は足利尊氏の東下によって鎮圧されたが、新政に不満を抱く尊氏は天皇の帰京命令を無視してそのまま鎌倉に居座った。天皇は新田義貞を将として尊氏討伐軍を送ったが、尊氏はこれを箱根で撃破すると、そのまま軍を率いて上洛した。かくして、新政は崩壊し、半世紀にわたる南北朝の内乱時代が始まったのである。春倫は足利尊氏に属したようで、尊氏と弟の直義が対立した「観応の擾乱」にも尊氏方にあった。正平七年(1352)、観応の擾乱に乗じた新田義宗が大軍を率いて鎌倉に迫ったとき、春倫は足利尊氏に従って出陣、武蔵野合戦において戦死した。

高槻入江氏の出自考察

 この『太平記』に出てくる入江春倫は、藤原姓入江氏系図にみえる駿河守清治の子油井左衛門尉治倫と同一人物とする説がなされていた。『姓氏家系大辞典』も工藤氏流入江氏と記している。ところが、近世肥後熊本藩細川氏に仕えた入江氏が伝える系図(肥後入江系図)によれば、春倫は清和源氏の流れで、摂津高槻城主入江氏に連なる経緯が詳細に語られていた。
 すなわち、高槻入江氏は源満政を祖とし、五代の孫相模守重時の註に「源義朝に従って右馬大夫入道と号す。駿河国入江荘に住する故に、入江を以て氏とす」と記されているのである。たしかに『尊卑分脈』の満政流に重時はみえているが、その註には「白河院北面、鳥羽院北面四天王の一人、無髪冠者と称せられる」とあるばかりで入江荘との関係は記されていない。分脈では重時のあと宗季までの名が記され、宗季以下は肥後入江系図につながっている。そして、宗季の孫にあたる義春は駿河国入江荘清水邑に住して清水を称し、この義春の子が左衛門尉春倫となっている。
 おそらく、入江氏としては工藤氏流の方が古くから駿河に所領を持っていたものと思われ、藤姓入江氏は鎌倉時代に勢力を失墜し、小さな御家人として存続していたのであろう。そこへ、清和源氏系の宗季の子孫が定住するようになり、やがて、両者の間に姻戚関係が生まれたのではないだろうか。

入江氏、高槻城に拠る

 さて、春倫が戦死した後も入江一族は足利尊氏に属し、嫡子の忠景はのちに鎌倉公方足利氏に仕え、二男の駿河守春則が尊氏の命で高槻城を築いたという。一方、肥後入江系図によれば、そもそも高槻は近藤氏が領していた。ところが、近藤宗光は後醍醐天皇の笠置臨幸に供奉して討死し、春則が娘を妻として高槻城主になったと記されている。
 春則は観応の擾乱に際して父とともに尊氏に属し、西国に出陣した尊氏が備前国三石で軍勢を催した時、春則は一番に馳せ参じた。春則の忠節に対して尊氏は、三つ切り石の紋を付けた旗一流を賜った。それより、春則は三つ切り石を定紋として用いるようになったと伝える。
 ところで、高槻城主に関して『高槻通史』では、鎌倉期より城主は高槻氏で、鎌倉末期の当主は高槻兵庫頭泰であった。泰は嗣子をなさないまま死去したため、足利尊氏に仕えていた入江右近将監資義が泰の娘を娶って高槻氏の家督を継ぐことになった。しかし、尊氏は入江氏の名を用いることを命じたため、以後、嫡子は入江を称し、庶子が高槻氏を称するようになったのだという。加えて、高槻氏の家紋は「三つ輪」といい、入江氏はみずからの家紋「石畳」とを併せ用いることになった。
 高槻氏の代々は一字名乗りが特徴的で、これは、摂津渡辺氏の一族であったことを想像させる。そして、高槻氏の家紋「三つ輪」は、渡辺一族が多く用いる「三つ星」の誤伝であった可能性が高い。見聞諸家紋に記された高槻入江氏の家紋「三つ輪の上の輪の内甃」は、高槻氏と入江氏の家紋を見事に合体させたデザインであったといえよう。   

戦国時代の入江氏

 駿河守春則、右近将監資義は、おそらく同一人物と思われるがそれを確かめることは困難というしかない。 そして、春則のあとの入江氏の動向に関しては遥として知れず、肥後入江系図も戦国時代の駿河守春正に至るまで歴代の人名を挙げるばかりで、経歴に関しては沈黙したままである。
 応仁元年(1457)に始まった応仁の乱をもって、戦国時代は始まるというのが定説となっている。応仁の乱は幕府将軍や各地の守護大名の権勢を失墜させ、世の中は下剋上が横行する戦国乱世となり、十五世紀末になると幕政は管領細川氏が牛耳るところとなっていた。管領細川氏は摂津守護職も兼ね、入江氏ら摂津の国人領主たちは細川氏の被官として乱世に身を処した。十六世紀のはじめ、細川氏に内訌が生じ、管領細川政元が暗殺されるという事件が起こった。以後、細川氏は二流に分かれて抗争を繰り返し、室町幕府体制は確実に有名無実化していった。
 永正八年(1513)、入江氏は池田・三宅・茨木・安威氏らとともに細川高国方として堺に出陣、細川澄元方と和泉の深井で戦ったが敗戦を味わっている。ついで、天文十年(1541)入江政重が死去しているが、背景には摂津守護代薬師寺与一の違乱があったようだ。政重の名は肥後入江系図に見えないが、ときの入江氏の当主であったことは疑いない。
 さて、駿河守春正であるが、天文十八年(1549)、三好長慶に擁立された細川氏綱と細川晴元が激突した戦いに嫡子の元秀(春継・春景?)が氏綱方として参戦した。戦いは氏綱方の勝利となり、晴元は近江に逃走、氏綱が管領になると春正は在京して氏綱に属した。春正のあとは元秀が継ぎ、元秀は摂津城主という地理的な関係からも京都を制圧している三好党に属していたようだ。
 永禄十一年(1568)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、元秀は義昭の陣に参じて所領を安堵された。信長は摂津に出陣して対抗する三好党を掃討、和田惟政・伊丹親興・池田勝正らが摂津守護に任じられ、摂津の支配にあたった。翌永禄十二年、三好三人衆は将軍足利義昭の住む京都六条の本圀寺を襲撃した。この事態に、池田八郎と伊丹兵庫頭は三千余騎の兵を率いて義昭を救わんと京都に馳せ上った。しかし、元秀は三好方に味方して、池田・伊丹勢を防ぐため五百余騎の兵を率いて出陣した。
 池田・伊丹らは元秀軍と当たることを避け、迂回蕗をとろうとしたため元秀はこれを追撃した。そこへ、池田八郎・同周防守、荒木摂津守らが取って返してきた。その勢いに呑まれた元秀は兵を退き、義昭に降服したが許されず高槻城を攻撃され誅死という結果となった。かくして入江氏は没落し、その後の高槻城主には和田惟政がなった。

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入江氏の故地を訪ねて

中世、入江氏が割拠していた高槻市を訪ねると、●高槻城址 ●能見神社 ●入江春正の墓碑 ●和田惟政の供養塔など…ゆかりの旧蹟が点在している。晴れた一日、ゆっくり訪ねるのも楽しい。


細川氏に仕える

 高槻城が落ちたとき元秀の弟秀升らが高槻城に籠っていたが、和田惟政は家臣である高山彦五郎(のちの右近)を使者として秀升を招き、「元秀はもはや是非の及ばず、一類は落ち去るべし」と諭し、秀升は高槻に蟄居するように進めた。そして、惟政の娘を娶った秀升は諸役を免じられて、高槻古城跡の土居のうちに住したという。子の春元は豊臣秀吉の検地にも免除地とされて大庄屋をつとめたことが、系図に記されている。以後、子孫は代々高槻に居住したという。
 一方、誅死した元秀には景秀と景光の男子があり、景秀は高槻落城後しばらく流浪していたが、勝龍寺城主細川藤孝に召し出されて丹後に供して細川家の家臣に列した。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に際して、細川幽斎が田辺城に籠城したとき、景秀は大手口を固めて活躍した。弟の景光も細川氏に仕えて忠興の近習を勤め、天正十年、忠興が一色義定を手討ちしたとき、同十八年の小田原の役のときも忠興の側近くにあった。かくして、元秀の子たちは細川家に仕えて、近世に至ったのである。
 一方、京都町奉行与力・同心の存在形態を知る史料として知られる『京都武鑑』を見ると、入江氏の名があり「四つ石」の家紋も記されている。おそらく高槻入江氏の一族と思われ、京都所司代の配下として入江氏が京に生きていたことが知られる。・2007年04月24日→11月03日

参考資料:旅とルーツ66号-竹田光弘氏の論文/高槻市史/高槻の戦国時代 など】

●工藤氏流入江氏系図にリンク



■参考略系図
    


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