三河国発祥、その家譜によれば清和源氏にして、小田重氏が始めて稲垣を称すと云う。 『藩翰譜』に「平右衛門尉源長茂は、伊勢国の住人、稲垣三郎重恭が後胤なり、中頃の先祖、文明年中(1469〜86)三河国に移りて、牛窪に住す。長茂の祖父 藤助重賢、父は平右衛門尉重宗とぞ申しける。長茂祖父より牧野の家に仕え、長茂の身に及びて、右馬允康成を助けて、家の事を司る。天正十年の秋、徳川殿 武田の国々打ち従えんとて、御勢を向けられし初め、長茂仰せを承って、足高山の麓天神川の要害を守らせらる」と記されている。大名になった長茂は慶長六年(1601)一万石を領し、上野国伊勢崎に住した。 永禄初年、家康に属した東三河の国人牧野成定の子康成に付属、合戦では陣代の役割を果たした。天正三年(1575)、遠江国諏訪原城の城番となった康成を助けて守衛すること八年、牧野康成の家に長茂ありきといわれた。以後、小田原の陣に至るまで康成の陣代で功績があり、家康をしていたく感銘せしめた。たとえば天正十年、康成が駿河国興国寺城を守衛中、本能寺の変後にとった長茂の行動をみてみよう。 このとき周辺の諸城を守備していた本多重次、松平康親は、興国寺城に集結して対処しようとした。長茂は様子がわからないままに城から退去すれば、敵方(後北条氏)に利用され良策ではないとし、各自、持ち城を堅守すべきとした。また、後北条氏征伐時の小田原城攻撃のとき、長茂は敵方の仕寄に近づき、水を落とし板で橋をわたしたので、家康の諸軍は容易に城中に入ることができた。 関東入国後は再び家康の直臣となり、上野・下野両国のうちで三千石を与えられた。慶長五年の上杉景勝征伐時には、牧野康成の上野国大胡城を守った。これは家康が長茂の手腕を見込んでのことであろう。 子孫は、志摩国鳥羽城五万石を領し、明治維新に至った。 ■参考略系図 |