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松井氏
●岩に根笹
●清和源氏為義流  
 


 松井氏は大納言藤原長宗より出で、清和源氏の源信濃守宗綱が継いだという。また、源為義の子松井冠者維義の後裔で山城国住人、松井兵庫頭宗次は足利尊氏に属し葉梨郷地頭となり、池田郷を与えられ、子の助宗は南北朝内乱期に今川範国の指揮に従って各地を転戦し香貫郷などを与えられ遠江に定着するようになったという。その後、室町期における松井氏の動静は定かではない。

松井氏の登場

 戦国時代、松井氏で史料上確実に知られるのは宗能からである。松井氏は代々山城守に任ぜられることが多く、宗能の父も山城守であったが、実名は不明である。山城守宗能は今川氏親に仕え、城飼郡平川村堤城主であった。その子貞宗は兵庫介と呼ばれ、二俣城主となった。この貞宗とその子宗信は今川義元に仕え、今川氏の領国拡大がはかられた時期でもあった。松井氏も義元に仕えて各地を転戦した。天文八年(1539)義元直々の書状で、その活躍ぶりを労われている。また、同年九月貞宗は新たに久津部郷を宛行われている。このころ宗信は駿府に赴き、近習・馬廻り衆として、義元の側近で仕えるようになった。
 永禄二年(1559)には、宗信は左衛門佐とよばれ、氏真から遠州における松井氏の知行分や代官職を安堵されている。また、このころ、家督は貞宗から宗信に譲られたようである。こうして、松井氏は今川氏の重臣として、義元・氏真の信頼を得ながらその地歩を固めっていった。ところが、永禄三年五月。桶狭間の合戦で義元とともに宗信は討死した。
 宗信は馬廻衆として義元の本陣にいたようで、その奮戦ぶりは「(前略)去る五月十九日、天沢寺殿尾州鳴海原の一戦において味方勝利を失うところ、父宗信敵を度々に及び追い払い、数十人手負い仕出だし、これに相与すといえども叶わず、同心・親類・被官数人、宗信一所に討死す。誠に後代の亀鏡、比類なきの事(後略)」と記した氏真の書状からもうかがわれる。
 このように、松井氏の当主宗信は討死した。しかし、その忠節を賞されて、松井嫡流の所領はそのまま宗信嫡子の宗恒に安堵された。
 ところで、宗信が桶狭間の合戦討死したとき、松井氏と同じく今川方の部将として参戦していた松平元康は、義元討死の知らせを大高城で受け取った。そして、三河大樹寺へと向かい、今川勢が引き揚げるのを待って、岡崎城への入城を果たした。その後、家康は西三河の経略を進めたが、三河の一向一揆が起こり、家康(元康改め)は人生最初の大きな危機に直面した。翌年、一揆は鎮圧され、西三河は家康によって平定されたのである。家康は引き続き、今川氏の勢力下にあった東三河の制圧へと向かい、永禄八年には東三河の平定にも成功した。
 この間、今川氏はほとんど成す術もない状況で、家康に三河を押さえられてしまった。実は、永禄六年から八年にかけて遠江において「遠州錯乱」とよばれる反乱事件が勃発し、三河どころではなかったのである。反乱の中心人物は引馬城主飯尾氏で、これに犬居城主天野氏、二俣の松井氏なども荷担したのであった。そして、この反乱は永禄八年末に飯尾氏が駿府で成敗され、やっと収まったのである。

今川氏の滅亡

 このような状況のため、今川氏の勢力は急速に衰えていった。そして、それが決定的になったのは、武田信玄による駿河侵攻の開始であった。信玄はたちまちに駿府を押さえて氏真を遠州掛川城へと追いやった。家康もこれに呼応して遠州に攻め入り、井伊谷を押さえるとともに引馬城に入った。その際、武田・徳川両氏の間では、信玄からの申し入れで、大井川を境として信玄は駿河を、家康は遠江を取ることが約束されたという。  こうして遠州に侵攻したのは徳川氏であった。この家康の遠州入りに際して、いち早く呼応してその先導役をつとめたのは、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時のいわゆる井伊谷三人衆であった。さらに、高天神.馬伏塚城主の小笠原美作守、久野城主久野三郎左衛門らも徳川氏の麾下に入った。
 とはいえ、駿河を逃れた氏真が頼っていった掛川城攻めが問題として残っていた。掛川城主は朝比奈氏で、今川氏に忠節を貫く武勇の将でもあった。家康の攻撃に対し、今川方も手強く戦い、永禄十二年正月の戦いでは久野宗能が敗北してしまった。その後、二十日の袋井口合戦、二十三日の天王山の合戦で徳川方はなんとか勝利を収めたのであった。ところが、久野氏の一族内部に今川方に離反する者が出るなど、一進一退の功防戦が続いた。しかし、今川方は次第に追い詰められ、五月になって和議が成立し、氏真は掛川城を明け渡し、小田原の北条氏を頼って落ちていった。ここに、今川氏は事実上滅亡すたのである。
 家康の遠州経略は順調に進むかに見えたが、その行く手に大きく立ちはだかったのは、武田信玄、その子勝頼であった。遠州を中心に、徳川・武田両氏の抗争が、天正十年(1582)三月の武田氏滅亡まで続くことになったのである。
 このような状況下、遠州の諸士のなかには、武田氏の軍門に降るものもかなりあり、永禄十二年(1569)には孕石元泰が信玄から所領を安堵されている。松井氏もまた武田方に降った一人であった。元亀三年(1572)松井宗恒は、従来よりの所領を安堵され、新たに敷地・神増などを加えられた。同年十月、信玄は三万の大軍を率いて上洛の途につき、十二月三方ケ原に徳川軍と戦いそれを一蹴した。この三方ケ原の合戦は家康にとって生涯に二度とない大敗北であった。しかし、翌年信玄は持病が重くなり病死してしまった。跡を継いだ勝頼はなかなか手強く、両者の攻防は長篠の合戦後も続いた。
 この間、松井氏は松井宗恒をはじめ一族の松井清十郎、善十郎らも本領の替地を宛行われている。つまり、勝頼の代になっても松井氏は武田方の武将として忠節を尽くしていた。やがて、武田氏の滅亡にともない、松井氏も遠州から姿を消すことになる。
 嫡流は、武田氏滅亡とともに没落したが、一族のうちで徳川氏に仕えて、徳川旗本になったものもいた。・2004年09月06日


■参考略系図
・肥後細川氏家老松井氏の系図をもとに作成。遠江松井氏との繋がりの部分は不明(調査続行中)。
    


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