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井戸氏
●梅 鉢
●藤原氏式家流後裔
 


 応永二十七年(1420)の『一乗院坊人用銭支配状』もよれば、井戸氏は大和国菅田上庄の下司であり、また一乗院方坊人・衆徒でったことがみえる。また、『満済准后日記』の永享元年(1429)二月条によると、井戸氏と豊田中坊が合戦をはじめた。井戸氏は筒井氏の一族であったことから筒井・十市氏らが援助し、豊田中坊には越智・箸尾氏らが協力し、両者の抗争は大和国人衆を二分する動乱に発展した。世にいう「大和永享の乱」の一方の当時者こそ井戸氏であった。

大和争乱

 井戸氏の出自は、『寛政重修諸家譜』には藤原式部公卿宇合の六代の孫で、平将門の乱に追討大将軍となった右衛門督忠文の後裔だとしている。そして、忠文の後裔杢之助時勝が寛正年中(1460〜65)に、大和国添上郡井戸城に住して家号を井戸にしたのが始まりと伝える。しかし、一乗院方衆徒であったことや永享の乱に関わる井戸氏の動向を見る限り、寛政譜の説はにわかに信じられない。おそらく、大和国の在地土豪の一家で、戦国期に至って筒井氏と婚姻などで一族となり、大和国衆の一人に成長したものであろう。
 永享の乱では、筒井氏らの協力を得て、豊田氏らと戦った井戸氏であったが、その後は豊田氏らに協力して越智方となった。明応二年(1496)、河内に出陣中の将軍足利義材と管領畠山政長の留守をついて、細川政元がクーデターを起した。この明応の政変に際して細川政元に与した越智家栄は、大和国衆を率いて上洛したが、その中に井戸氏も加わっていた。
 以後も井戸氏は越智方に属したようだが、同六年には筒井氏と戦って城を筒井氏によって落され、越智氏らとともに吉野に没落している。しかし、同八年筒井・越智両党の間に和睦の動きが出てくると、細川政元の部将赤澤朝経(宗益)が大和に侵入してくる。越智氏と筒井氏は連合して赤澤軍に抗戦、井戸氏も筒井党に戻って赤澤氏に抵抗している。
 永正二年(1505)、大和国衆の間に和睦が成立、大和では国衆による一揆体制が成立した。同年、宗益の大和侵入に対して国衆は一致してこれに抵抗を示した。ほどなく、政元の死によって宗益も戦死したが、翌年には細川澄元の家臣赤沢長経が大和に乱入、大和国衆はこれにも団結して対抗した。つづいて、享禄元年(1528)には柳本賢治の大和侵入、いずれも大和国衆一揆の敗北に終わり、大和国衆の苦難の時代は止まることはなかった。
 天文元年(1532)には一向一揆が蜂起して興福寺・春日社に乱入、さらに天文五年(1536)になると木沢長政が信貴山城を築き、河内・大和に支配力を伸ばしてきた。天文十一年、猛威を振るった長政が河内で討死、翌年、筒井氏は古市氏を攻撃、筒井氏と越智氏との抗争が再燃した。かくして、大和国衆一揆体制は崩壊、越智党と筒井党に分かれての抗争が繰り返されるようになった。

戦国時代の終焉

 乱世のなかで、次第に筒井順昭が勢力を拡大、天文十五年、越智氏の貝吹城を攻め、さらに十市氏の城をせめ陥落させ大和一国を支配下におくまでになった。ところが、順昭は疱瘡を患って天文十九年に死去、そのあとはわずか三歳の藤勝(のちの順慶)が継ぎ、叔父の順政が後見役として筒井氏の家政を支えた。
 永禄二年(1559)、三好長慶の重臣松永久秀が大和へ侵入してくる。久秀は井戸良弘の籠る井戸城を攻め、救援に駆けつけた筒井順慶を撃破、井戸城は松永氏の手に落ちた。大和国衆は続々と松永氏に降り、筒井方は劣勢に陥った。そのような永禄八年、井戸氏は松永方の古市氏を攻め古市郷を焼いたが、筒井氏は中坊駿河に二千の軍勢をつけて井戸氏を救援している。この頃には松永方から井戸城を奪回していたものであろう。その後も松永方との間で小競り合いが続くが、元亀元年(1570)三月、井戸城はふたたび松永方に陥り、破却されてしまった。
 やがて、天正四年(1576)、順慶が信長より大和守護に任じられる。そして翌五年、久秀は織田信長に謀叛して滅亡、大和一国は筒井順慶が支配するところとなり、良弘は順慶に属して添上郡において二万石を領した。ほどなく、尾張国に至って織田信長の麾下に列して戦功をたて、山城国久世郡槙島城主となり二万石を領した。小さいながらも織田信長直属の大名に出頭したのである。良弘が大和国を去ったあとは、嫡男の覚弘が井戸城城主となって二万石を領し、筒井順慶に仕えた。
 天正十年(1582)六月二日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に殺される。つづいて、山崎の合戦が起り、光秀を討ち取った羽柴秀吉が天下人として振舞うようになる。一連の異変において、槙島城主井戸良弘は いずれにもつかず、山崎合戦後の六月十四日同城を筒井順慶に渡すと女房衆を連れて吉野へ逃れてしまった。その後牢浪していたが、順慶の死後、豊臣秀吉に召し出されている。これは、山崎の合戦において秀吉方にはならなっかたにしろ、光秀方となって秀吉の背後を攻めることもできたのにそれをしなかったことを秀吉が徳とした結果といわれている。

近世に生き残る

 順慶が死去したのちは、養子の定次が筒井氏の家督を継いだ。定次は秀吉に仕えて天正十二年に小牧・長久手の戦いに出陣、天正十三年には紀州征伐、四国征伐、翌年には九州征伐などなど連年にわたって秀吉の出兵に従った。良弘の長男覚弘率いる井戸軍も戦陣に加わり、十三年の紀州征伐では多くの士を損じたことが『多聞院日記』などで知られる。ほどなく、筒井定次が伊賀転封になると、井戸覚弘も伊賀に移り住んだ。天正二十年(文禄元年=1592)、朝鮮出兵が開始されると筒井定次に従って覚弘出陣、朝鮮に渡海し武功をあらわした。
 豊臣秀吉が死去し、関ヶ原の合戦で徳川家康が天下人になった。筒井定次は家康に従って関ヶ原に出陣するなどして伊賀一国を安堵されたが、慶長十三年(1608)、罪を被って所領没収の処分を受けた。覚弘も知行を失い大和国柳生谷に蟄居した。翌年、召されて江戸に下り、家康・秀忠に拝謁し、翌年常陸国真壁・下野国都賀両郡のうちで采地三千四十石余を賜った。
 同十九年、大坂の陣が起ると安藤対馬守重信の麾下に属して出陣した。重信の長男重年が若年であったことから、家康の命によって重年を援けてその士卒を指揮した。覚弘後の家督は嫡男良弘が継ぎ、子孫相次いで徳川旗本家として存続した。・2007年11月11日

【参考資料:辰市町史/奈良県史・11巻 ほか】


■参考略系図
鈴木真年氏が謄写された系図(東京大学史料編纂所データベース)を底本に作成。
    


Ver.1 系図


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