清和源氏頼光流で、頼光九世の孫・山懸六郎次郎国氏の子国親が福島氏を称したことに始まる。美濃国発祥と伝える。 戦国時代の当主は福島兵庫正成で、今川氏親に属して遠州土方城を守った。大永元年(1521)九月初め、氏親は福島正成を総大将に命じ、正成は駿河.遠江の連合軍一万五千を率いて富士川を北上して甲斐へ侵攻した。駿・遠軍は九月十六日、大井信達の拠る富田城を襲い、ここを占拠して西郡一帯を荒しまわった。 武田氏との合戦 そして十月、今川軍は甲斐府中の武田信虎の館をめざして進撃を開始した。正成は真正面から攻めるのを避け、登美の龍地台に本陣を構えた。迎かえ撃つ武田軍は三千に満たない少数の軍団であったが、いずれも一騎当千のつわものぞろいであった。とはいえ、駿・遠の大軍が怒涛のごとく攻めてくればひとたまりもなく押し潰されることと、信虎は冷や汗を流していたことだろうが、駿・遠の大軍は一挙に攻め込まなかった。 十月十六日、信虎が動いた。一千余騎を率いて飯田河原に集結。これをみた駿・遠軍は大挙して飯田河原へ急行、待ち構えていた武田の騎馬隊と激突、壮烈な騎馬戦となった。しかし、武田軍に機先を制せられた駿・遠軍は押し切れずに、全軍龍地台に引き揚げた。本陣に帰った正成は「さすがだ。将兵は数でないな。ご油断召さるな」と部将たちに語ったと伝えられる。 そして、十一月三日信虎に長男が誕生している。のちの信玄である。一万五千の大軍が今にも攻め寄せようとしている武田存亡の瀬戸際に武田信玄は産声をあげたのであった。お世継誕生は武田の将兵に明るい光を投げかけた。 信玄誕生の二十日後の十一月二十三日、二度目の戦いが上条川原で開始された。信虎にとって興亡をかけたこの合戦は負けられない戦であった。激戦は夜まで続き、決着がつかないまま双方はそれぞれの陣地に撤退した。この機会を待っていた武田の別動隊が駿・遠軍のくつろぐ時を見計らって、本陣を奇襲した。 武装を解いていたこともあり、またたく間に福島正成をはじめとした駿・遠軍の部将は討たれて次々と落命した。ここに急転直下武田軍の大勝利となったのである。統率者を失った駿・遠軍は、翌朝武田軍に降伏した。甲州人は、この一連の合戦を「福島乱入事件」と呼んで語り伝えたという。 北条姓を名乗る 正成の討死後、その子綱成は北条氏のもとに身を寄せ、累功を重ねそれを認められて北条氏綱の女婿となった。このとき北条姓を与えられ、福島から北条に改姓している。 綱成の旗指物は、黄色の練の四隅にそれぞれ八幡の二字を書いたもので、世に「地黄八幡」と呼ばれ、天文十五年の河越夜戦、永禄七年の国府台合戦をはじめ、そのはためくところ数々の勝利と栄光に輝いた。綱成は北条氏に忠を付くし、相模国玉縄城を守って、天正十三年(1587)に七十一歳で没した。北条氏滅亡に先立つ、三年前のことであった。 豊臣秀吉に仕えて安芸国広島の大大名となった福島正則が一時、綱成のもとで養育されたという所伝があるが、実際あったことかどうかについては明らかではない。おそらく、戦国の名将であった綱成に縁を求めたものであろうか。 ■参考略系図 |