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不破氏
三つ巴
(清和源氏為義流?)


 『美濃明細記』などによれば、不破隼人藤原直家の後裔と伝え、また『美濃国諸家譜』などには清和源氏源為義の後裔松井蔵人直家の子直重が不破隼人佐を称したとみえている。さらに、代々山城の南宮神社社家のひとつで、元弘元年(1331)松井直家が笠置攻めの功で美濃国内に荘園を賜わり、不破郡府中村に移住して不破氏を名乗ったともいう。
 諸説あるが、出自・系譜とも詳らかではない。美濃国不破郡の名を名乗ったことは間違いないようだが、その本拠はさきの府中村とも、安八郡北方村ともいい、本貫地も定かではないのである。
 大永五年(1525)、近江の浅井氏が美濃に侵攻した際、これと戦った土岐氏の軍勢のなかに不破河内守がおり、これが史料にみられる早い例である。天文十一年(1541)、斎藤秀龍(道三)が土岐頼芸を攻めたとき、不破小三郎は土岐方として戦い、頼芸の没落にも随従した伝えるが、不破光治は斎藤氏のもとでその地位を保証されている。すなわち、永禄元年(1558)以前に安八郡瑞雲寺に門前諸役を免除しており、この地域を支配していたことが知られる。これが信頼すべき史料での不破氏の初見である。
 永禄十年、尾張の織田信長が斎藤氏を破って美濃を支配下に収め、翌年、越前一乗谷から足利義昭を迎えるが、このとき、不破光治がその使者の一人として派遣されていて、すでに信長の厚い信頼を得ていたことがうかがわれる。
 その後、光治は子の直光とともに浅井・朝倉氏や越前一向一揆との戦いで忠節を励み、天正三年(1575)には、前田利家・佐々成政とともに越前府中に配された。この三人を府中三人衆と称するが、かれらの役務は、越前を預けられて北庄に配された柴田勝家の監視であり、今立・南条の二郡を給された。
 光治はその後も各地に転戦するが、天正九年九月から翌年三月の間に没して、子直光が家督を相続したものと推定される。直光は信長の死後、前田氏の家臣となり、加賀藩で惣領家は四千五百石を給された。また、一族の多くも加賀藩に召し抱えられている。



■参考略系図


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