播磨の中世、とくに鎌倉幕府の滅亡以後は、赤松氏の歴史といっても過言ではない。赤松氏は村上天皇の第七皇子具平親王の子源師房の孫季房が、天永年間(1110〜12)、播磨に流され播磨国赤穂郡赤松村に居館したことに始まるという。季房の曾孫則景は源頼朝の平家討伐に功があり、播磨各所に赤松氏繁栄の基盤を築いた。 元弘三年(1333)二月、赤松則村(円心)は大塔宮護良親王の令旨によって、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。円心は六波羅の討伐軍を備前船坂峠に破ると一転して摂津に進出、摩耶山の戦いで六波羅勢を敗走させ、尼崎の久々知、酒部の線に陣を進めた。この間わずかに一ヵ月という迅速な行動を示した。この円心の奮戦によって、一躍、赤松氏の名は歴史にあらわれたのである。 赤松氏の興亡 建武の新政樹立に功のあった赤松氏であったが、戦後の処遇は必ずしもその活躍に見合うものではなかった。建武二年(1535)足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した時、赤松氏が尊氏に加担したのは、戦後の論功行賞に対しての不満が背景にあった。以後、赤松氏は尊氏方に属して足利政権の樹立に大功をたてることになる。 足利幕府成立後、三管領四職家がおかれると四職家のひとつに赤松氏が挙げられた。さらに、播磨・美作・備前・摂津の守護職にも補せられた。円心の長男範資は摂津守護職に任じ、次男貞範は美作守護を、そして三男の則祐が惣領として播磨守護となった。 範資には男子が数人いたとされ、家督は嫡子光範が継ぎ、その流れは七条流と称された。光範の弟直頼は佐用郡船曳庄大内谷に住して、本郷弥三郎を名乗り掃部介・信濃守・宮内大輔などを称した。直頼の孫頼尚は江見五郎祐則の子で頼兼の跡を継いだもので、この頼尚が本郷三郎のちに船曳三郎を称して船曳氏の祖となった。ところが、頼尚の代の嘉吉元年(1441)、赤松宗家満祐が京都で将軍足利義教を殺害、「嘉吉の乱」が起こった。幕府軍の討伐を受けた赤松氏は播磨城山城で滅亡、船曳三郎頼尚も城山城で討死した。 そのとき、頼尚の一子五郎兵衛尚重は幼少のため船曳庄にあり、乱後、宍粟郡の地に隠れ氏を奥に改めた。その後、赤松遺臣の活躍で政則が取り立てられて、赤松家の再興がなった。応仁の乱が起ると政則は、東軍細川勝元に属して本国播磨回復のために西軍山名氏と戦った。この頃、船曳庄は山名氏の領地であり、その家臣小笹九郎兵衛が上本郷鎌倉天満の天神山城に拠っていた。家の再興を目指す尚重は、赤松一族である宍粟郡長水城の宇野氏の援軍を受けて天神山城を夜襲、これを落すことに成功した。この功で、尚重は旧領である船曳庄の細月・本郷・真宗・志文・春哉・乃井野・広山を復し、ふたたび大内谷城を築くとそこに居城した。 織田氏の播磨侵攻 尚重のあとは、子の奥五郎兵衛尚通が継いで船曳庄を領した。いまも天文七年(1538)と刻まれた五郎兵衛の自然石の墓が、仁増の川東の山中に残っている。しかし、十五世紀末から十六世紀中ごろにおける船曵氏の動向は明確ではない。 天正五年(1577)、織田信長の播磨侵攻が始まり、信長の部将羽柴秀吉が司令官とする織田軍が播磨に攻めてきた。西播磨を領する宍粟郡長水城主宇野政頼は、毛利氏と通じて秀吉軍に対抗し、天正八年、秀吉の討伐を受けることになった。 当時、大内谷の船曳家は尚通の子尚興の代で、尚興は宇野氏と好を通じ、度々勇名を顕わしていた。尚興の長男の左衛門尚信も知勇を備え力量があり、若年から宇野氏に属して数々の戦功があった。しかし、長水城の戦いの時には、尚興はすでに老境にあり、尚信を大内谷に留めると、三男で江見氏より養子に入った藤八郎を尚信の身代わりとして長水城に赴かせた。 藤八郎は兄に代わって長水城宇野氏に属して、最期まで志をかえず、籠城決戦に忠節をつくした。宇野家中にあって、船曳藤八郎は春名修理・長谷川五郎兵衛・横部六郎ら三人とともに「宇野四天王」と称せられた。そして、長水城の戦いで討死した。 ところで、尚興の次男の与三は、のちに杢左衛門と名を改めたが、人となり武勇絶倫で、若くより宇野氏の麾下にあった。宇野政頼の三男三郎は作州吉野郡小原(大原)庄竹山城主新免宗貞の養子となり宗貫を名乗った。そこで政頼は、剛毅抜群の家臣六名を選んで竹山城に行かせた。木南加賀衛門・井門亀右衛門・内海孫兵衛・安積小四郎・香山半太夫、そして船曳杢左衛門で、かれらは「新免六騎武者所」と称された。 当時、新免家の家士に、宮本武蔵の父の平田無二がおり、宮本村を領していた。船曳杢左衛門と仲が良く、合戦のごとに両士の軍功が抜群であったことから、俗に「船曳杢、平田無二」と並び称され、作東に名を挙げたと伝える。 その後の船曵氏 その後大内谷に帰った杢左衛門は、宇野氏に属して数々の戦功を挙げ「西播の逸物」とよばれ、その間宇野氏の褒賞も少なくなく、船曳与三、奥与三、船曳杢左衛門、奥杢の宛名で書かれた感状が残されている。ところが、宇野氏はその力に奢るようになり、船曳氏をさげすむようになった。そのような頃、秀吉の宇野征伐になった。杢左衛門は老父尚興の許しを得て、兵をひきいて黒田官兵衛の麾下に入り、長水城の攻撃軍に参陣した。ここに船曵一族は、兄弟が敵味方に分かれることになったのである。 長水城の戦いで杢左衛門は大功をたてたが、秀吉は「船曳家は宇野氏と同族で、数代それに与し、いま自分の勢いがさかになったからといって、麾下に属して功があったが、武士の道として、同族非情賞し難い」といって、ついに親しくすることはなかった。長水城における戦功もむなしく、杢左衛門は本郷に帰り父尚興らとは別に仁増に居を構えて時節の到来をまったと伝える。 のちに船曳杢左衛門は新免氏に再仕したが、関ヶ原の合戦で敗れて浪人となり、その後黒田氏に仕え九州福岡に下った。兄尚信の系は武士を捨て大内谷に住し、江戸時代は庄屋となって続いたという。・2007年11月13日 【参考資料:三日月町史/兵庫県史 ほか】 ■参考略系図 |