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福住氏
●竹輪に三羽雀
●平城天皇後胤
福住氏が用いたものか不明だが、菩提寺という西念寺の幔幕に染められていた紋を仮に掲載。
 


 福住氏は東山内の福住(天理市福住)を拠点として、全盛期には福住七郷を支配して中定と井之市に城郭を築いた。至徳元年(1384)で、「長川流流鏑馬日記」に福住殿と記されているのが、記録に現れるはじめである。そして、筒井氏を刀禰とする戌亥脇党の一員であったことが知られる。
 その出自について、平城天皇の第五皇子山田王の後裔とする説が流布されている。そして、『大和志料』は、山田王の後裔岩市丸が早世したため、近衛信基の末子宗重を養子に迎えて家督に定めたとしいう説を紹介している。岩市丸は応永二十二年十月、染田天神に証文有りといい、福住氏の代々は仮名に岩市丸を用いていたようだ。その他、中世の記録に福住氏のことがあわらわれるが、その経歴、系譜などは不明というしかない。
 室町時代の長禄二年(1458)、福住五郎があらわれ、五郎は筒井氏から出て福住氏を継いだ人物で、成身院光宣の弟にあたるという。五郎は子がなかったため、筒井昭覚の子某が福住氏を継いだ。このように福住氏は筒井氏との縁を重ね、ほぼ筒井氏の一族同然の存在であった。

筒井氏の重鎮、福住氏

 大和の中世は、北和の筒井氏と南和の越智氏の対立を軸に争乱が展開した。応仁の乱における福住氏の動向は定かではないが、昭覚の子で福住氏を継いだ某は「無双の仁」としてその勇猛ぶりをうたわれている。乱の最中の文明七年(1475)、布施氏が万歳・高田氏と戦った。この戦いにおいて筒井氏は布施氏を応援したが敗北、福住が戦死している。越智氏の攻勢に対して筒井氏は劣勢に陥ることが少なくなく、破れるたびに筒井氏は東山内に逃れ福住氏の支援を得てゲリラ戦を展開した。
 筒井氏と越智氏の抗争は、福住氏ら東山内の国人らにも影響を及ぼし、筒井方と越智方に分かれて抗争が繰り返されるようになった。文明十七年、福住氏は越智氏方の山田氏に居城を攻められるという事態となったが、よく山田勢を押し返したようだ。やがて、河内守護畠山義就と政長の抗争が大和の争乱をさらに複雑なものとし、義就を南和の越智氏が、政長を筒井氏がそれぞれ応援、大和国人はここでも両派に分かれて戦いの日々を送ったのである。そのような乱世のなかで、福住氏は東山内衆の有力者として、よく筒井氏を支え続けたのであった。
 最盛期における当主は宗職で、福住七郷の鎮守である氷室神社の神主を務めた。福住氏が拠った福住井之市城は、東山内地域における城郭としては大規模で、多田氏の貝那木山城、山田氏の馬場城とい並ぶものである。そのことは、そのまま福住氏の勢力の大きさを表したものといえよう。また、氷室神社に残る春日版嘉禄本大般若経奥書には、「大和国山辺郡福住庄氷室宮御宝前御経也宗職(花押)時天文八年(1539)己亥八月五日」とあり、宗職の力のほどを示している。
 宗職は筒井順慶を家老として支え、永禄二年(1559)、嫡子宗永に神主を譲渡すると、同年六月十七日に奉告祭祝詞を当社に納めて隠居した。宗永は筒井順昭の弟順弘といわれ、子のない宗職のあとを継いだ人物であった。福住氏は筒井氏の一族として、松永久秀との抗争に敗れた順慶を居城に匿いゲリラ戦を展開、順慶の再起に力を尽くした。
 
福住を訪ねる





奈良県の北東部、笠置山地に位置する大和高原は東山内とよばれ、中世、多くの武家勢力が存在した。そのなかでも筒井一族の福住氏、多田を本拠とした多田氏らが有力国人として知られる。名阪国道福住インターチェンジを降りると、福住氏ゆかりの福住の地が広がる。福住氏が拠った城跡をはじめとして、福住宗職が神職をつとめた氷室神社が古式然とした姿で鎮座し、福住氏の菩提寺という西念寺には一族の墓石が残されている。まことに世俗を離れたのどかな福住の地だが、戦国時代には国中の戦乱に巻き込まれた物々しい歴史を有しているところだ。


筒井氏の終焉

 宗永(順弘)には三人の男子があったようで、次男正次、三男慶之は筒井順慶の養子となった。正次は筒井主殿助を名乗ったが、順慶の死後筒井氏の家督を継いだ定次と合わず、弟慶之とともに筒井本家を去って福住に隠棲した。
 その後、慶長十三年(1608)、領内の取締不届きを理由に定次は改易処分を受け、大名としての筒井氏は終わりを告げた。さらに、慶長二十年三月、大坂の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、定次は自害を命じられた。このとき、定次の子・筒井順定も自害し、筒井家嫡流は断絶したのである。 筒井本家が断絶した後、正次は家康に召されて筒井定慶を名乗ると、郡山城の城番に任じた。
 かくして、大阪陣が勃発、大阪勢が郡山城に攻めよせた。ところが作戦の齟齬から守備兵の大部分逃亡、定慶は戦らしい戦をすることもなく城を脱出する結果となった。郡山城を奪われた責任を痛感した定慶は自害、弟の慶之も兄とともに自害して福住氏は没落した。一説に、定慶は自害と称して福住に隠棲したとする伝承もあり、定慶の正確な没時はいまなお不明なままである。・2007年11月03日

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参考資料:天理市史/大和志料/奈良県史=大和武士 ほか】


■参考略系図
 
  


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