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野田氏
十六葉の菊
(藤原南家熱田大宮司族)
『羽継原合戦記』の「十六葉の菊の紋は野田福王かもん也」の記述に拠った。熱田大宮司家の千秋氏は、 三つ柏を家紋としている。野田氏も同紋であったか?


 野田氏は熱田大宮司の一族の子孫で、鎌倉時代初期から足利氏と婚姻関係を結び、その指揮下に属していたと伝えられている。しかし、武蔵国の野田氏は、下野国簗田御厨の出身で、野田郷・高橋郷などを本領とする武士であったようだ。
 これから考えれば『尊卑分脈』などに見られる熱田大宮司系の野田氏と、室町・戦国期に武蔵国鷲宮地域で活動する野田氏が同一の氏族であったとすれば、野田氏はすでに鎌倉時代のうちに尾張方面から下野に移住していたことになる。いまに伝わる「野田系図」では、二つの野田氏を同じ家系として扱っているが、それを裏付ける史料は見当たらない。
 いずれにしろ、野田氏は簗田御厨内に名字の地をもち、のち下河辺に移住し、やがて栗橋城主となったことは間違いのないところである。

野田氏の台頭

 『鎌倉大草紙』に「嘉慶元年(1387)、古河住人野田右馬助」と見え、『頼印大僧正行状絵詞』に「去至徳四年(1387)、野田入道等忠、古河ヨリ召人一人搦進」と、見えることから、十四世紀の末には野田氏が「古河住人」として下河辺荘古河に根を下ろしていたことが知られる。さらに応永六年(1399)、下野の島津道祐が、小山の乱のさなかに他氏に押領された所領の回復を願って鎌倉府へ提出した訴状から、至徳年間、野田入道が島津氏の所領を押領していることが分かる。このころ野田氏が古河を拠点として、他氏の所領を押領するほどの存在となっていたことを示している。
 このように武蔵国で勢力を伸ばした野田氏は、おそらく鎌倉公方が御料所下河辺荘を支配するために送り込んできた鎌倉奉公衆の一人であったと思われる。
 武蔵野田氏で、知られるのは成朝・政朝の父子であり、政朝は野田氏の当主代々の伝統を持つ右馬助を名乗り、足利政氏・高基・晴氏の三代に仕え、政の一字は政氏から偏諱を受けたものと考えられる。そして、簗田氏とともに政朝は古河公方の有力な奏者として活躍している。享禄元年(1528)、足利晴氏の元服式に際し、政朝は一色・簗田・佐々木氏ら古河公方宿老の最上位の一人としてその名を連ねている。
 天文二十三年(1554)政朝の跡を継いだ政保は、足利義氏から向五郷・栗橋などを宛行われた。これは義氏の公方家相続から二年目のことであった。その間義氏の父晴氏は、嫡子藤氏とともに義氏とそれを擁立する北条氏康に対して古河籠城事件を引き起こしていた。公方家が分裂すると、当然家臣団も大きく動揺した。政保が義氏から所領を宛行われたことは、野田氏が義氏側に立っていたことを示している。
 義氏の背後に北条氏康が控えている以上、野田氏も氏康とまったく無関係でいることはできなかった。たとえば、弘治二年(1556)氏康が小田氏治攻撃の軍を催したとき、野田政保は後北条軍とともに常陸へ出陣している。その後、野田氏に対する氏康の締め付けは強くなり、義氏と晴氏・藤氏父子との古河城争奪戦において、氏康は晴氏・藤氏を「当御所様」に対する「謀叛人」ときめつけ、政保に義氏のために彼等を逮捕するように命じてきた。
 政保は公方家の家臣であり、義氏と藤氏との板ばさみにあいながらも、氏康の強い圧力と所領を宛行という条件に屈して藤氏たちを逮捕し、これまでどおり栗橋城主としての地位を保つとともに、所領も獲得したのであった。一方、氏康は古河公方家の内訌をその家臣野田氏を使って落着させ、義氏・氏康に対する野田氏の忠誠心をも試すことができた。以後、野田氏は義氏を媒介とした氏康の強い統制下に入って行くことになる。

謙信の関東進出

 永禄三年(1560)秋、上杉謙信が関東に出陣してきた。翌四年、謙信に擁立された藤氏が古河城に入ると、政保は関宿城にいた義氏を守って上杉軍を迎え撃った。しかし、野田政保がいかに義氏への忠誠心を誓ったとしても、もう一人の古河公方藤氏からの命令と、それを支える謙信の軍事力が関東を席巻するなかで、一貫して義氏=氏康・氏政方の立場をとり続けることは難しかった。それゆえ後北条氏は所領を宛行うなどして、政保をあくまで義氏の家臣として自らの陣営につなぎとめようとしたのである。
 しかし、政保は弟の弘朝とともに義氏・氏政から離反し、藤氏・謙信に味方する。このころ、野田氏の実権は政保から弘朝に移りつつあった。野田氏が上杉軍に属するようになるのは弘朝の主導であったと考えて間違いないだろう。永禄九年正月、謙信が味方の諸将に示した陣立書に「野田 五十キ」と見え、野田氏は五十騎の騎馬武者を率いて謙信のもとに参陣することになっていた。とはいえ、野田氏が謙信方に属したのは一時期であったようで、永禄十一年にはふたたび後北条氏方に転じている。
 ただし、北条氏政がこのような野田氏の行動に不審をいだいたことは確かで、やがて、野田弘朝の拠る栗橋城を接収し後北条氏の直轄下に置こうと策動を開始するのである。氏政は弘朝との交渉を弟の氏照に任せた。このころ氏照は後北条氏の北関東進出の司令長官で、古河公方やその家臣団に関する諸問題を一身に委ねられていたのである。そして、氏照は弘朝に対して栗橋城の明け渡しを要求し、永禄十一年、弘朝は栗橋城を氏照に明け渡している。その後、弘朝は古河城の頼政曲輪に住むように命じられた。それは、かつて簗田氏とともに古河公方家臣団の双璧をなした野田氏にとってまことに屈辱的な扱いであった。
 永禄十二年二月、義氏は弘朝に対し、氏政が駿河へ出陣する予定だが、それを狙って甲斐の武田信玄が相模へ攻め込んでくるであろうから、兵を揃えて派遣するようにと命じた。さらに七月、氏政・氏照は、それぞれ弘朝に手紙を送っているが、武田信玄と対決するため駿河へ出陣するので、その間、栗橋城の留守居をするように、というものであった。

野田氏の没落

 義氏の命令という名目があるとはいえ、つい二・三年前まで栗橋城主であった野田弘朝にとって、それはあまりにも厳しく大きな時代の変化であった。それだけに弘朝の不満はひとかたならぬものがあった。しかし、後北条氏の北進策が強化されればされるほど、栗橋城の重要性は高まり、ますます弘朝の手から遠ざかっていった。
 その後、栗橋城は北条氏照の持城となり、後北条氏の北関東進出のための拠点と化したのである。そこには、 すでに野田氏の入り込む余地はなかった。こうして、野田氏は歴史の表舞台から消えて行ったのである。


■参考略系図
・詳細系図不詳。
    


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