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星合氏
●瓜の内に十六葉菊
●村上源氏北畠氏流  
 


 星合氏は伊勢の国司大名北畠氏の一族である。北畠右中将政郷の三男親泰が、永正年間(1504〜20)伊勢国星合に新城を構えて居住、星合を称したのに始まる。親泰は北畠材親の軍将となり、国司家伝の天蓋の馬印を授けられた。伊賀・甲賀の諸士を与力として諸所の合戦に軍功を挙げた。その功により、同国矢野、星合、村松、生津、伊沢らの地を領した。大永六年(1526)大河内城に移り、式部大輔に任じ、北畠氏の政務を執行した。のち、中納言にすすんでいる。

北畠氏の重鎮として活躍

 親泰の嫡男具種は、父が大河内城に移ったあとの星合城を守り、のち大河内城に移った。国司晴具より遍諱を与えられ、北畠氏の軍将として活躍した。天文八年(1539)従五位上に叙し、翌年正五位下にすすみ、翌十年には従四位下に昇り、十四年には参議に任じた。元亀三年(1571)十一月死去、天翁とも号した。
 具種には、数人の男子があった。嫡男教房は星合城主となり、父に先だって永禄五年(1562)に死去した。二男は、初め藤方と名乗ったが国司具教の遍諱を受けて教賢と名乗った。具忠の軍将としてたびたび軍忠を励まし、のち男子の具泰が父具種に養われてその家督を継いだが、幼少により賢教が代わって軍役を勤めた。天正四年(1576)具教が卒し、賢教は大和国吉野に蟄居した。織田信雄からさいさいの招きがあったが、固く辞してそれに応ぜず、慶長十四(1610)年四月死去した。
 具種の三男藤忠、四男藤勝、五男藤光は、いずれも堀江氏を称した。
 星合氏の家督を継いだのは、前記のように具泰であった。北畠氏滅亡後は父とともに大和吉野郡に蟄居したが、のち尾張国に至って織田信雄に仕えた。文禄四年(1595)、秀吉の命により信雄の嫡男英雄の家老となり、大坂参勤および京師伏見往還の使として秀吉より河内国に三百石、英雄より越前国のうち牛原郷、安地美郷、花黒郷の地を与えられた。

具泰の不運

 慶長五年(1600)、上杉征伐として家康は下野国小山に陣した。このとき、織田信雄父子は家康麾下に属せんことを、具泰と村瀬重治を使者として下野に遣わした。二人が相模国小田原に至ったとき、石田三成の挙兵を聞き、村瀬はそのまま下野にいたり使命を果たすこと、具泰は上方に帰って軍事を諮ることとして、具泰は大坂に帰って信雄にまみえた。
 このとき信雄の具泰に語るに、「家臣の多くは石田方となって、信雄の石田方に属することを求めていた。しかし、これを聴かず」と。そして、村瀬・具泰の帰着を待っていたという。具泰はこれを聞いて、「まことに然るべし。ただちに越前国に赴き、秀雄の勢を率い、青木一矩を加えて大谷吉隆を討ちとって、家康への忠節にせん」として即刻信雄の前を退いた。
 しかし、越前国木の芽峠において、上洛する大谷軍と遭遇、大谷軍に遮られて志を遂げることは叶わなかった。しかし、大野に立ち帰り、秀雄にすすめて前田利長の勢に馳せ加わり、西軍山口玄蕃頭正弘が籠る大聖寺城を攻め落した。しかし、同年秀雄が武蔵国浅草に閑居すると、具泰もこれに従い閑居した。
 その後、石田三成の反逆のときの具泰の行動が家康の耳に達し、秀忠に奉仕するようとの上旨があったことが本多正信から伝えられた。そして、廩米五百俵を賜った。このとき、常陸国小田において采地千五百石を賜らんとしたが、岡田某が正信に「具泰は織田信雄の家臣のとき、村瀬重治に倍せり、御家に忠あることも重治に劣るべからず、いま重治は三千石を領る、具泰いかで千五百石のみなるべきや」といった。正信はこれを聞いて、もっともなこととして後日家康に言上すべしとしたが、事が進まないうちに家康、そして正信も死去しついに加増のことはならなかった。
 その後、星合家が千五百石の知行となったのは、ずっと後年正徳三年(1713)のことであった。
 星合氏の家紋は「瓜の内十六葉菊」だが、具種は三つ引両、具泰は丸に三つ引両、具枚は三つ星を用いたという。伊勢国司家にふさわしい「桐」紋も使用した。・2004年08月17日


■参考略系図

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