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本多氏
立ち葵
(藤原北家兼通流)


 本多氏の本多はもと本田が正しく、新田に対する地名として用いたもので、現に本田氏も少なくない。三河の本多家は藤原北家兼通流と称し、近世には大名十三家、旗本四十五家を出している。このうち平八郎忠勝の系統が宗家とされ、その祖先は豊後国本多に住んでいたという。忠勝は平八郎忠高の長男で家康に仕え武力抜群、上総大喜多十万石を与えられ、関ヶ原の合戦後は伊勢桑名十五万石となった。
 家康の参謀といわれる弥八郎正信の系統は少し流れが違うらしい。その子正純は下野宇都宮十五万石を領し、武家諸法度の制定に関与したが、のちに失脚、領地は没収された。
 同族ではあっても、近江膳所六万石の大名となった本多氏は伊奈本多と呼ばれている。鬼作左とよばれた本多重次はこの系統だ。

忠勝系本多氏

 先祖は豊後国本多に住したので本多を称した。助定のとき足利尊氏に仕え、尾張国横根・粟飯原の二郷を宛行われ、室町幕府の奉行衆だったようである。
 助時のとき三河国に住し松平宗家二代泰親に属し、三代信光の安城攻めに戦功があった。以来、代々松平宗家に仕え岩津譜代とされる。助時以降、平八郎を呼び名とした。忠勝の祖父忠豊は、家康の父広忠の岡崎還城に功労があった。天文十八年(1549)、忠勝が二歳のとき、祖父・父とも安城攻めに戦死した。
 忠勝は永禄三年(1561)十三歳で初陣し、その後常に家康の側近にあった。のち武田信玄が遠州に侵入したさい、殿で追い迫ってくる武田軍を防ぎ、全軍を無事撤退せしめた。
 世上"家康に過ぎたるもの、唐の頭に本多平八"とうたわれた。常に徳川氏旗本の先鋒で勇戦し、とくに小牧・長久手の戦いでの武勇ぶりは、敵方の秀吉をして「無双の勇気」なりと感嘆せしめたという。

正信系本多氏

 正信の本多氏は忠勝と同族であるが、助政の系統である。正明以降、弥八郎を呼び名とし、忠正・正定・俊正は清康・広忠に仕え、三河国西条に住した。
 正信は天文七年の生まれで、家康より四歳の年長である。幼少より家康に仕えたが、三河一向一揆の時、門徒である正信は一揆方に加わった。一揆敗北後、加賀国などを流浪した。おそらく一向宗門徒の知己を頼ったのであろう。この時期正信に会った松永久秀は「凡人にあらず、剛柔をかね文質を宜くす」と評したという。
 のちに家康のもとに帰参し、姉川合戦に参陣している。以後、家康の側近として領国統治の重要な政務に関与した。関東入国後、一万石を与えられた。これは武将としての功績というより、家康側近として政治手腕を発揮したことによるものであろう。
 家康が正信をいかに信頼したかについては、「乱には軍謀にあづかり、治には国政を司り、君臣の間相遇こと水魚のごとし」であったという。のち二万二千石となったが、功労のわりには少ないようである。


■参考略系図
 



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