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小鴨氏
揚羽蝶*
(伯耆国古代氏族後裔)
*小鴨氏の氏神である小鴨神社の神紋を仮に掲載しています。


 『源平盛衰記』に、京を追われた平家が福原京に陣を布き、一の谷の要害を固めるために、西国から武士を徴集したとみえる。そのなかに。『小鴨介基康、村尾海六、日野郡司義行」らの名が見えている。小鴨は正しくは「おかも」であって、伯耆国久米郡に起こり、介とあることから、国司の介となった在庁官人であったと推測される。
 小鴨氏が、伯耆の古代氏族の流れを汲むものであろうことは推測できるが、その本姓を知ることはできない。しかし、小鴨氏はその後も発展したようで、元弘のころ(1331ごろ)には、小鴨城に拠っていた小鴨治部少輔元之がおり、後醍醐天皇が隠岐から船上山に遷幸されたとき、宮方軍の攻撃を受けて降伏し、元之はその後、天皇の京都遷幸に供奉したという。
 ところで、小鴨氏系図によれば弾正少弼氏基に註して「元弘三年三月十五日、足利尊氏加冠役たなり、氏の一字を賜り、鎧一領ならびに備前国定の太刀を賜る。同三年後醍醐天皇伯耆国船上山に潜幸の時、氏元一族三百余騎を以て参着」とみえる。ちなみに、氏元の母は南条壱岐守元伯の女とある。

戦国争乱を生きる

 小鴨氏は、のち室町幕府の御家人となり、明徳の乱(1391)に際しては、小鴨基末(入道宗伯)が討死している。さらに『応仁記』に伯耆の有力諸氏として「因幡には伊達・波多野・八部・山口、伯耆には小鴨安芸守・南条・進・村上、備後には江田・和智・山の内・宮の一族等、但馬国に馳せ集まる」とある。小鴨氏は南条氏と並んで、伯耆地域の有力者であったと記されている。
 小鴨氏は、久米郡小鴨庄の岩倉城にお拠っていた。そして、室町時代に小鴨氏は、伯耆守護の「被官小鴨」とみえ、小鴨備前守は備前国守護代であった。小鴨安芸守は、長禄二年(1458)五月付けの守護山名教之の遵行状を下されている。しかし、この小鴨氏がどのような系譜にたながる人たちかは詳らかではないのが残念である。
 戦国時代、天正のころまでには、一族が美作にも広がっており、小鴨左衛門大尉元清は、吉川元春に襲撃されて。美作国苫田郡井内山で戦死した。この元清が官兵衛元清と同一人物であるならば、南条元次(元続)の兄弟であり、かつ南条元繁の孫ということになる。すなわち、『系図綜覧』に見える「南条氏系図」にあるように、南条氏から小鴨氏に養子となったものであろう。
 系図をみると、元清の小鴨氏とは別に清佐系の小鴨氏がいたことがみえる。そして清佐の弟に正寿院利庵西堂を挙げている。これは、毛利方として「今倉の砦」にこもった小鴨四郎次郎、正寿院ノ西堂利安であり、毛利に対抗した南条元続に与した小鴨元清と対立した小鴨党の人物であろう。
 秀吉の中国征伐のときには、小鴨元伴が南条元続とともに従軍した。この元伴は元清の養父と系図にはみえている。元清が戦死したとき、その子は幼児であったため、美作の小鴨資政に養われ、長じて小鴨三郎右衛門を称したという。


■参考略系図
倉吉市史掲載の系図をベースに作成。
    


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