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平岡氏
九 曜
(清和源氏頼光流)


 平岡氏は清和源氏頼光流という。すなわち頼光の子下野守頼資が、摂津国溝杭を領して以後横杭氏を称した。資正の代に至り、資光が河内の平岡に住んで以来平岡氏を称したという。しかし、資正の兄資元の流れは以後も横杭氏を名乗っていたようで、頼勝に至って平岡が名字として定着した。
 足利将軍義政のころに成立した『見聞諸家紋』を見ると、溝杭氏が出ている。おそらく、このころは、室町将軍家に近くあって、その家紋である「九曜」が収録されたものであろう。残念ながら、系譜上の誰にあたるのかは比定できない。
 ところで、平岡頼勝は秀吉に仕え、のち秀吉の甥・秀秋に付けられ、秀秋が小早川家を継ぐことになったとき、ともに付いて出て小早川家の家老となった。関ヶ原の戦いで、小早川家は最初西軍に属したが、東軍に寝返らせたかげの貢献者が、すなわち頼勝であった。
 そのとき秀秋十九歳、頼勝四十歳であった。戦後秀秋は寝返りの功によって、備前岡山五十一万石の城主となり、それにともなって頼勝も同国児島で二万石が与えられた。その翌々年秀秋が死んで小早川家は断絶、頼勝は家康に仕えて、美濃徳野に新封一万石を得た。
 しかし、その子頼資のとき、気狂いで先行き回復の見込みなしということで、所領は没収され、改易の憂き目にあった。家名は頼資の弟頼重に千石が残され、旗本家として存続した。
 平岡資正の流れは甲斐に移り住んだようで、因幡守良清の代に甲斐守護武田信虎に仕え、その子頼成、孫道成は武田信玄・勝頼に仕えた。しかし、天正十年(1582)武田氏が滅亡、その後は多くの武田家遺臣がそうであったように甲斐平岡氏も徳川家康の麾下に入った。子孫は、徳川旗本家として支流十三家(絶家四家)を数えるまでに広がっている。
 いずれの平岡家も家紋は、九曜を用いている。頼勝後裔の平岡氏は、鐶の内に九曜を配したものも使用している。


■参考略系図
 


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